連載第八回目

★アメリカ短期留学
昭和56年、そういうわけで立命館大学の自主留年を3回生の終わりに決め、4回生からは「アメリカ短期留学」と「少林寺修行」と「日本的経営の勉強」に専念しました。4回生になると就職活動で何もできない。このまま卒業は嫌だと。まあ、私達昭和30年代生まれはしらけ世代・無気力・新人類の走りですね。明治~昭和10年代の爺さんや親父の世代・戦争世代が今の日本を創り、団塊の世代=昭和20年頃の全共闘世代が、その前の悪い部分?をたたき壊し、その後には何も残ってなかった。
「二十歳の原点」やかんば美智子?本を読み、角材闘争なんかを期待してたんですが、当時の立命館は学長が共産党員で学内は民青一色。対立団体もなく、大人しいものでした。同志社や京大はたまに闘争・殴り合いがあり、羨ましいと思いましたね。燃えるものがあっていいなあと。一応、それに関係ありそうな「部落問題研究会」とかにも顔出しましたが、今のマルチ商法的な勧誘しかなく物足りなかった。ただ、狭山事件は一時期調べ、京都近郊の部落や八鹿高校、関係ないですが、大阪西成や釜崎もぶらぶらしました。何かあるんじゃないかと。まあ、活動に突っ込むほどの問題意識も時間もなかったですがね。
★就職活動を開始
こうして留年し、NYのコロンビア大学へ手紙を書いて安売りチケットだけ持って3ヶ月英語の勉強(さっぱり??でした)。ハーレムで少林寺を教え、英語クラスの先生に22歳にして男にしてもらい、5回生の夏頃から就職活動を始めました。自信はありましたね。
大学2年、3年時には少林寺拳法関西大会で2年連続優勝(パートナーの久保田和之=立命の2年先輩で今は滋賀の私立高校で先生=というスゴイ男に恵まれたんです)。ついでに校内格闘技決定戦でも優勝。本は500冊は読破したし、成績もまあ上の下。ただ今考えると子供でしたが、自主的とはいえ留年したのがもの凄いマイナスだと思ってました。現役入学でしたし、実際はほとんど関係ないですがね(中退・高卒でも、実力派の成長企業なら全く問題ない。世間体気にする大企業はダメよ)。皆と同じ、やりたいことなんてわからない。とりあえずは上場企業・有名企業だと、下宿に来たダイヤモンド社の雑誌で適当に選び、大沢商会、内田洋行、丸紅、兼松、松下電器貿易、NEC、日興証券、山一証券あたりを廻りました。兼松、NECあたりは暗に「立命くらいじゃダメ。出世できない」と先輩訪問からわかり、狙いを松下電器貿易に絞りましたがダメ。結局、9月までに内定もらえたのは証券会社だけでした。田舎へ戻ることもチラッと考えましたが、こんな福岡あたりでくすぶるのは嫌だ。やはり、男は大都会東京だ!せめて大阪だ!そして、人生の成功は有名大学→有名企業に入って出世することだ、中小企業や独立起業なんて100%頭の中にはありませんでしたね。商売人とか、あれは駄目な人間がやることだなんてね。で、仕方ない、日興証券にでも行くか。でも、何となく働くのは嫌だな。松下政経塾か慶応のMBA、立命の大学院もいいなと資料は請求してました。
★一部上場企業の社員に
そんな9月中旬、一通のDMハガキ。見ると「ヤマハ発動機。二次募集!」。静岡本社ということで全く考えもしなかったんですが、当時はオフロードバイクで走り廻っていたし、一部上場で超有名企業。でも入社なんて無理、こんなところは東大や京大や早稲田慶応ばかりで、立命程度じゃねと思いましたが、まあ受けるだけ受けてみるかと大阪の地産ビルで面接。6人ごとの集団面接でしたが、他に内定も貰ってるし、どうせ受からんだろうと横柄に対応。文武両道でこんなヤツいないぜ!みたいなノリで、大人しく「なく」面談を終わりました。
二次面接があったかどうか忘れましたが、結果は合格!
「おお、やったぜ!証券会社よりもこっちだ」と、女と名刺交換した時に「ヤマハの栢野」と「日興証券の栢野」では、絶対にヤマハの方が格好いい。モテルし、友人知人、家族にも自慢できる。申し訳なかったですが、日興証券には「大学院へ行くことになった」とウソついて断りました。この内定を断ることに悩む学生が多いですが(私も相当悩みました)、結論から言うと全く問題ない。中には大学に迷惑かけるなんて思ってる人いますが、全く何の問題ない。どこに行こうが、途中で辞退するなんかどんどんやればいい。自分の人生は自分で決めるんです。こうして一部上場企業の社員になることが決定。「俺は人生に勝った!」と思いました。

連載第七回目

★別室は出町柳のクラシック喫茶
そんな感じで、作文嫌いを克服するために、大学時代は少林寺+乱読+日記の日々。京都時代は時間が余ると、日記と本を持って左京区出町柳の何とか言うクラシック喫茶に入り浸ってました。高野悦子「二十歳の原点」の舞台だった喫茶シアンクレール(思案に暮れる)にも一度行きましたが、どうも落ち着かない。で、この出町柳の茶店が私の別室でしたね。何も無いときは朝から出向き、トーストとコーヒーで夜まで粘る。その間はリクエストしたクラシック(一番のお気に入りはブラームスの交響曲1番)を聴きながら本を読み、感じたことや悩みを日記に書き殴る。日記だから、文体や文脈なんて関係ない。今は「楽天広場」の日記に変わりましたが、ノートは20冊くらいあります。まさに青春の証ですね。今もまた大青春を楽しんでますが・・・。このクラシックはいいですよ。なんか思考力が高まり、本も日記も走る走る。
★青春賛歌シリーズをBGMに
下宿でもFMからダビングした曲をいつもかけ、太宰治を気取ってましたね。窓に新聞紙を張り付けて暗くし、雰囲気創ってね。ただ、オフコースやイルカ、太田裕美や松山千春もよく聞きました。松田聖子も少し。そして、少林寺の道場に行く前は気分を高揚させるため、「燃えよドラゴン」や「ロッキー」を聴いてから出ました。このBGMはいいですよ。気分高揚に抜群の効果がある。このことはずっと忘れていたんですが、友人でもあるコンサルタント・神田昌典さんのエッセイを読んでいて思い出したんです。彼は洋楽のポップスがBGMだとはかどると。ああそうだなとCCCにレンタル借りに行ったんですが、70年~80年代の青春賛歌シリーズに目が止まり、一気に20枚ほどを選択。吉田拓郎や井上陽水、サタデーナイトフィーバー、ユーミンなんかですが、これがもの凄くイイ。なんか10代や20代のガンガンの気分に戻り、文章も人生もかっ飛んでいます。私は外へ出る時や運転中は必ずテープを聴くんですが、半分はビジネス講演、半分は音楽で、今の一番お気に入りはサタデーナイトフィーバー(古いねえ)。「ステインアライブ」なんか聴くと、あの映画の主人公=駄目なペンキ屋だが夜はディスコの帝王で、惚れた女の為にやくざな生活から脱出する・・・トラボルタ=になりきり、見ていろよエリート連中め!必ず人生をリベンジしてやる!ってな気持ちになります。
★日記は書けても卒業論文は書けない
で、話は学生時代に戻りますが、バイクで外に出るときも常に日記と本は必須。嵐山に行ったときも、四条河原町のマクドナルドに行くときも、王将で餃子を食べるときも、次々に女性に振られて鴨川で寝そべっているときも一緒でした。そして、何か頭に浮かんだり悩んだらとにかくその想いを書く。バイクで放浪の旅に出たときも、日々の行動と想いを書く。寝袋で旅先の駅で寝るとき、夏の下宿が熱くて真夜中に京福電鉄御室駅のベンチで寝るとき、そこにはいつも本と日記がありました。まさに自分の分身ですね。でもね。こういうことを3年やった大学4年の時=立命館大学経営学部の渡辺ゼミで卒業論文を書き始めたときも、まったく文章が書けなかったんですよ。どうも好き勝手に書く日記と論文は違う。なんだ、こんなに毎日日記に書いてきたけど、全く上達してないなと、その時は結構、自分の能力に絶望しましたね。実は当時、「朝日ジャーナル」でデビューしていた作家の戸井十月さん=作家+バイク+少林寺をこなす人で、まさに俺と同じだ!俺もこういう人になりたいと、下宿の本棚には「朝日新聞の記者になる!」とか「ルポライターになる!」なんてマジックで書いたりしていたんです。でも、この論文執筆でやっぱりダメだと諦め、同じゼミで文才があって北海道新聞を目指すんだという友人を恨めしく想い、私は大学4年を迎えます。
★卒業論文のテーマは餃子の王将
もう、就職活動だ・・・と。ちなみに、書いた卒業論文は「餃子の王将の研究:なぜ、王将は流行るのか」。まあ、そんなのは最初から分かっている=安い、早い、量がある=学生と貧乏人の味方。でも、店長や本社まで行って取材し、あとは客としての感想をまとめましたね。
そうか、今考えると、あれが今の仕事の中心である取材執筆の最初でしたね。渡辺峻教授は「もう既存の論文の切り張りはやめよう。君たちの足で取材やアンケートとったものを卒業論文にしよう。そして、それをまとめて本にしよう!」という、当時としては画期的なゼミ活動にチャレンジしてました。
後日、リクルート社で東京の王将支社に営業行ったとき、この論文が話題になって5冊も注文もらい、ついでに仕事ももらえましたね。まあ、そういう意味では渡辺教授に出逢えたことは、その後20年経って作家?になった私の恩人第1号です。こうして大学4年を迎えるんですが、このゼミ活動と当時流行っていた「日本的経営」の勉強、それと少林寺拳法の大きな大会を控え、私は自主留年することを決めました。
その間、ニューヨークのコロンビア大学へ短期英語留学し、大学5年になって本格的に就職活動に入ります。その時も、自分が将来、文章で食っていくなんて、1%も思っていませんでした。

連載第六回目

★大学の講義は役に立たない?
こうして京都の学生時代は「超苦手な作文を克服する+虐めたアイツに復讐する」目的を完遂するため、読書+日記+少林寺の日々でした。大学には比較的真面目に通いました。講義も2/3は出ましたね。
経営学部だったんですが、どの講義もチンプンカンプン。でも、学問とはこういうものだろうと、あえて難しいほうが価値があるんだとずっと思ってました(30歳を過ぎて、大学の講義=特に経済・経営系。文学や理工系はイイと思うよ=はほとんど役だたないと気づきましたが。大学教授が世間より相当遅れている)。でも、学内の学生生活は期待していたよりは、はるかにつまらないものでしたね。私の場合はクラブ活動してなかったのもあるんですが、高校と違ってクラスがあってないに等しい。つまり、自由なんですが、逆に同じクラスの親友ができにくい。一体感がない。なんか、いつも同じクラスでワイワイやってた高校の方がいいなあ、とずっと思いましたね。単に自主性がなかっただけかも知れませんが。
★常に日記帳と本を携帯
そういうわけで、まあまあ講義に出て、合間にバイトをやって(初めてやった机運びで貰った金で食ったラーメンはうまかった!)、夜は週に3日は少林寺拳法の道場。それ以外は読書+日記に夢中になりましたね。外出するときは常に日記帳と本を携帯。2回生になってバイクに乗ることを覚え、「こんなに自由に遠くまで行けるとは素晴らしい!俺は自由だ!」と夢中になり、京都は勿論、週末や連休、大学が休みの時は近県・全国を走り回りました。こう、精力的ではあったんですが、一方では振られた「まりちゃん」のことを引き吊り廻してました。京都の鴨川に行ってはカセットでオフコースやユーミンや杏里を流し、<オリビアを聴きながら>の「♪出逢った頃は、こんな日が、来るとは思わなかった・・疲れ果てたあなた、私の幻を愛したの~♪」を聞いては「いや、違う。俺は真剣に君を愛している」、「♪夜更けの電話、あなたでしょ。話すことなど何もない・・」には「そうか、やっぱりダメなのか・・」と落胆したり。
それでも、少林寺で黒帯をとったらもう一度まりちゃんに会いに行くという夢は捨てず・・・てなことを日記に毎日書きまくりましたね。まあ、一人芝居・自問自答集です。でもね。今考えると、ホント良かったですね。失恋のしまくりで。男はどうかあまり知りませんが、有名女性作家では何人もいるでしょう。どう見てもブスでモテない屈辱の人生。それがたまり溜まって、スゴイ小説を書いてますもんね。よく知りませんが、林真理子や内舘牧子なんて、どう見たって男にはモテない。その怨念パワーですよ。あのへんは。勝手な独断と偏見ですがね。だからね、家が貧乏・破産・倒産・リストラ・片親・離婚・捨て子、ブスやブ男や無学歴・バカ大学・就職失敗・就職先が中小零細、転職オタク、かつ起業・自営でもうまくいってない=ひがみやコンプレックスの塊=嫌なヤツはイイんです。
★潜在的なエネルギーの蓄積
潜在的にエネルギーを蓄積してる。それが爆発するのが10代なのか、20代か30代か。もしくは私のように40代以降か・・。それは人それぞれで時期がある。だから、今、苦しい人はね、それは確実に実は成長してるんです。面白いことに、苦しい最中はそれに気づかない。なんで俺だけがこんなに不幸なんだとね。神様はそうは簡単に救ってくれない。試練を与えてくれる。スッと行ったら、大概はダメでしょ。高校までの秀才・天才が良い例。そのほとんどは40歳過ぎたらただの人ですよ。ザマアミロですね。但し、復讐を成し遂げるには、単に占いや神頼みだけではダメです。やはり、普段の努力は不可欠。次回では、私なりにした努力の一例を公開します

連載第五回目

★立命館大学入学
昭和52年3月立命館大学へ入学するために宇多野御屋敷町(御室)の西田さん宅横の下宿に着いた私は、その日から作文コンプレックスを克服するために「日記」をつけ始めました。
大学=試験は論文という恐怖があり、今までの作文レベルではない、これは何とかしなくては…という思いでした。と同時に意識してやったのが読書。前にも言ったかも知れませんが、私は高校まで勉強以外の本を読んだことがない。だから作文もできないのではと、この3月から本も相当読み始めました。
★読書し、日記を書く
そう考え、確か最初に読んだのは、高校2年の時に昇天した親父の本棚にあった「どんな人間になりたいか/副題は<もし苦しいと思ったら>」(青春出版社・青春新書)。現在の月刊経済誌「経済界」主幹の佐藤正忠さんが若い頃の大挫折=極貧の中から出版社を立ち上げて成功させて選挙に出馬したが落選し、尚かつ選挙違反で逮捕・収監=し、出所後スグに書いた昭和45年の本(私は一度は手放しましたが、2年前にブックオフで見つけました)。
「今がどんなに暗く=辛くても、朝の来ない夜はない!」。
ありがちな自己啓発風の本ですが、私はこれに救われました。今、考えるとホント純粋だったんですが、高校時代のまりちゃんに振られたことは大ショック。しかし、投獄までされた人で、かつ、佐藤佐野の淡い失恋&克服話も私にはタイムリーで、何度読み返したことか。今も、何かあれば読み返しています(人生とは面白いもので、後に私の友人が<経済界>に就職し、その縁で佐藤正忠さんには2度会いました。友人は現在、<経済界>で専務をやっている時田君です。また、憎み合っていた親父が残した本に救われたのも…後に感謝しました)。
他には畑正憲さんの「ムツゴロウの青春期」は学生生活のバイブルとして、また、大江健三郎は格好をつけるため、太宰治はその赤裸々な人間模様記述に「これは俺のことが書いてある!」と感動しましたが、皆、そう思うらしいですね。武者小路実篤もよく読みました。特に「友情」は何度も。親友に彼女を奪われ、実力=仕事で彼女と親友を見返してやる!と決意し、親友から貰ったデスマスクを叩き割るシーンには自分の失恋(まりちゃんはその後、私の同級生!と恋仲に)を重ね合わせ、私も京都の古美術屋でデスマスクを買ってきて眺めていました。今に見ていろと。
だから、読書と同時につけ始めた日記には1年くらい、毎日まりちゃんへの思いと悔しさ・諦め・絶望と、いや大丈夫、何とかなる、逆境はチャンスなのだ!という自分を鼓舞する言葉ばかり。プラス、学生らしい、簡単なことをわざと難しく文学的に表現するような、今では絶対に書けないなと思う蒼いことを書いてましたね。
★少林寺拳法を始める
この読書+日記以外に、大学へ行ったら絶対にやろうと決めていたのは少林寺拳法。ブルースリーが流行っていたのもあるんですが、一番の理由は中学時代に受けた虐め。と言っても殴られたり恐喝などもなかったんですが、デカイ下級生からしばしば首元を突き上げられたり、頭を小突かれたり。その程度でと思うかも知れませんが、14歳のガキには強烈な屈辱で、なぜか友人にも家族にも相談できないんですね。その程度でも地獄なんです。たまに虐めで自殺する子供がいますが、あの気持ちはよくわかる。それと、黒帯をとって男らしい人間になり、再びまりちゃんに会いに行くんだと。この2つの理由で少林寺を始めました。ただ、体育会だと大変なので、町の道場に入りましたが。
こうして私の大学生活は、本+日記+少林寺の日々に。でも、まさかその後、文を書くことが仕事になるなんて、まったく思いもしていませんでした。

「押し貸し」ってご存知ですか?

検索エンジンで「押し貸し」を検索してみたら、結構ヒットしました。
すでに毎日新聞などでも被害のニュースが報告されています。この押し貸しの被害が広まり始めたのは昨年の秋頃からだそうです。
「押し貸し」とはズバリ闇金融業者が無断で現金を入金し、数ヶ月後に法外な利息の取り立てを行うという詐欺の新しい手口です。今までは金融業者から借金経験者の口座情報を入手して、それらの人をターゲットにしていたらしいのですが、最近ではネット上から口座情報を集めて行っているとのこと。
このニュースを見て、ぞっとしました。
SOHOの中にはシェアウェアの公開をされて、ご自身の銀行口座も公開されている場合があるからです。
闇金融問題に詳しい弁護士の話によると「契約もしてない振込金に利息が発生するわけがなく、利息請求されればその時点で恐喝未遂にあたる」とのことですので、前回と同様、怖い・不安であるからといって利息+元金を入金しないようにご注意ください。
【参考WEB】
▼ヤミ金・恐怖の新手口 押し貸し金融(噂の東京マガジン)
http://www.tbs.co.jp/uwasa/20021222/genba.html

連載第四回目

★高校時代に書いたラブレター
そんな感じで、小倉西高校時代は成績も上位。気分的にラクで、恋愛もうまくいきました(最初は)。高校2年の時に同じクラスで彼女とイチャイチャしていた同級生の姿を見て感化され、俺も恋をしたいとクラスの中の女性を観察。岡田奈々に似たまりちゃんという可憐な女性に目を付けました。高校時代なんてそんなもんですかね。見ているウチにドンドン好きになっていき、気づいたらラブレターを書いてました。それまで話したこともなかったんですが、高2の夏休みの自習?かなんかの時に、彼女の下駄箱の中に手紙を入れました。ちょっと前に成績の発表があり、たまたまクラスで3番になったこともあって、「俺はこんなに頭いいんだぜ」みたいなことも見せつけたから、タイミングもいいんじゃないかと。当時は成績が良い+スポーツが出来る=モテる条件だと勝手に思ってたんでね。イヤなヤツですね。
★返事が来ない
しかし、1週間経っても返事ない。ああ、やっぱダメかと諦めかけていた頃、彼女の女友達から手紙を受け取りました。見ると差出人はまりちゃん。「やったー!」という気持ちを抑え、講堂に一人走りました。そして、恐る恐る中を見ると「手紙ありがとう・・・いろいろ悩んだけど、これからは良いお友達としておつき合い下さい」ちょっと??だったけど、これはOKだと、やった!!!!!!!。
でもね、バカですね。OKもらったけど「つきあう」というのはどういうことかわからない。デートとは?どうすればいいんだ?で、数日は何も出来ず、顔を合わせようとすると自分から逃げる。ガキですね。と、ある日、まりちゃんが放課後に学校を出ていくのを目撃し、その後を追っていきました。で、公園のブランコに座っていたまりちゃんに会い、「どうも・・・これからよろしく・・・」「ええ、ああ・・・」みたいなギクシャクした会話を交わし、私にとって今でも人生で最高の、淡いプラトニックラブ?みたいなつきあいが始まりました。以前放映された「北の国から初恋」みたいなもんです。
★最初のデート
確か最初のデートは小倉城近くの図書館。そこで一緒に勉強し、それから境内を歩いて他愛のない話をし、玉屋デパートをうろうろ。話のネタに困りながら「じゃあ、また・・」と。その後も、放課後に高校から三萩野交差点(ローカルネタですいません)まで一緒に歩いたりのデートで、勿論、手をつなぐとかも考えられませんでした。
東京への修学旅行は楽しかったなあ。バスの中で「君といつまでも」を歌ってまりちゃんへの愛を伝えたり、でも一緒に行動すると皆にバレルので目と目でデートしたり、いやあホントに青い恋をしてましたね。しかし、そんな恋愛も1年足らず。高3になって受験勉強だからと、私の方から「卒業まで会わないようにしよう」と申し入れたにも関わらず、一ヶ月で約束破って彼女を待ち伏せする日々=ストーカーそのもの(しかし、後日の営業活動では、それが活かされることになる)。そのうち嫌われて、完全に無視されるようになりました。
★そして大学受験
でも、頭の中はまりちゃんのことでいっぱい。深夜ラジオやアグネスチャンの歌(ファンクラブにまで入ってました)を聴きながら、その合間に勉強というながら勉強しましたが、関西大学・長崎大学に落ち、運良く受かった京都の立命館大学に入学。当時の小倉西高校のレベルでは、現役で関関同立に受かる人はほとんどなく、私はちょっとしたヒーローに。それをかさに(イヤなヤツでしょう)、最後の面会をとまりちゃんに電話しましたが、当然?振られました。
こうして傷心のまま、私は一人新幹線に乗って京都へ。その車中で、2人の人間に復讐するために少林寺拳法をやろうと決意し、また、勉強で一番苦手な作文をどうにかしたいということで、もう一つの「あること」を京都に着いた日からやろうと決めました。

連載第三回目

★受験中に名前を確認される?
福岡県立城南高校の受験中、突然、3人の試験監督=先生が私の机の周りに寄ってきました。「君が栢野君か・・」。「ええ、はい」。でも、何で俺のことを知ってるんだ???まあ、いいかと。試験はできませんでしたね。まあ、私立に行けばいいかと発表日に行くとナント合格。まあ、こういうこともあるかと、落ちた級友の前で受かった友人の飯山と喜び=でも、飯山は落ちた友人を気遣って苦笑い。友人の中には「何でもお前が受かって俺が落ちるんだ」といったヤツもいたが、私はザマアミロという感じで目の前で喜んだ=嫌らしい15歳でした。
その1ヶ月後、家の両親の寝室を通りかかると「・・・アイツも入れば何とかやるだろう」という会話が。その言葉と試験監督の言葉がバチッと合い、「そういうことか」とわかりました。つまり、真相はわかりませんが、明らかに、当時銀行の取締役だった父が何らかの手を使って私を合格させたのです。
その負い目もあり、実力以上の高校に裏口で入ったので成績もダメ。生まれて初めて中以下の成績=400人中300番前後=俺は劣等生だと感じ、かつ、担任はあの試験監督の一人で事情も知っているからか、私を白い目で虐めました。周囲の友人も裏口入学のことを知っているのではないかとビクビクし、学校へ行くのが非常に苦痛でしたね。
★家庭教師は数学教師
ところが高校1年の夏、父が転勤で小倉へ行くことになり、私も転校試験を受けることになりました。一番優秀な小倉高校は到底無理。校区で次は小倉西高校でその次は小倉南高校。当時の成績では南高は楽勝だが、西高は当落線ギリギリ。しかし、親は西高を受けるように言い、私は引っ越しのミカン箱の上で勉強していました。
すると突然、「家庭教師です」という中年の男性が。????ですが、まあ親が心配で寄越したのかと、なぜか数学だけの家庭教師を1時間で帰っていきました。
???のまま、翌日の試験に行くと、なんと全く同じ数学の問題。「またもそういうことか」と思いながらも解答し、他の英語はたまたま暗記英語は中学から得意で、かつ簡単だったのでおそらく90点以上。苦手の国語もなぜか簡単で、おそらく300万点中270点は取れたんじゃないでしょうか?当然、合格でした。
事情を知らない、当時の担任だった若狭先生は私の成績を見て「これはスゴイ生徒が入ってきた。さすがは福岡だ」なんて言ってましたが、「そりゃそうだ。試験問題知ってるんだから」。てな感じで福岡県立小倉西高校へ入学しましたが、数学の時間になって入ってきた先生を見てビックリ。あの家庭教師だったのです。「やっぱりそうか」と。この件に関しては勿論、親にも誰にも問いただしませんでした。16歳の子供ながら、やっぱり悪いこと、大変なことだとは思っていましたから。
★高度成長期の銀行役員の父
ずっと後になり、新聞で公立高校の賄賂や不正入学で逮捕された記事を何度か見ましたが、まさに紙一重のことをやっていたんですね。私の親は。まあ、私のことを思ってのことでしょうが、当時=昭和40年代の高度成長期の銀行役員というのは、相当な権力と人脈を持っていたようです。しかしその一方で、私は親に対する憎しみというか、対抗する正義感のようなものが芽生えましたね。
ただ、高校生活は楽しかったです。小倉西高は城南高校に比べて学業レベルは1ランク低く、私の成績も350人中で50~70番くらい。優越感と安定感を取り戻し、大人になって知る「鶏口牛後=例えば、大企業でビリ社員より、中小企業でリーダー」の優位性を知りました。しかし、相変わらず国語・作文は大の苦手で、単なる暗記文を書くだけでした。

連載第二回目

★国語・作文が大嫌い
私は昭和33年11月12日、福岡市中央区大名で生まれました。当時、父は岡山県総社市出身で福岡シティ銀行の営業マンでしたが、その後30代で最年少取締役になるほどのエリート。しかも、昭和6年生まれでほとんどの人が大学にも行かない時代、「東の一橋」「西の神戸」と言われる神戸大学経営学部卒でした。さらに、これは40歳過ぎて事実を知ったんですが、父方のお爺さんは、福岡シティ銀行創業者メンバーの一人。母も総社市出身で、実家は「カヤノ写真館」を今も総社でやってます。
こういう家系だったからか、幼稚園からオルガン、小学生になって習字、絵画、剣道などに通わされ、小学校高学年からは塾に通ってました。しかし、成績は3が中心でたまに4がある程度。特に嫌いだったのが国語で、その中で一番嫌いだったのが「作文」でした。何かを書けと言われても、空欄を埋める記憶モノはまだ良かったんですが、自由に何かを書けと言われると何も書けない。子供心に辛かったですね。だから国語が大嫌いに。
★自信作の修学旅行記
そんな中、小学校6年の時に修学旅行があり、その旅行記を皆で書くことになりました。なぜかその時は燃え、しかし、自分の文章はほとんどなく、ただし、行った先の名所や人物のことを辞書で調べ、まあ、そのまま書き写しただけなんですが、結構なボリュームの日記=ルポみたいなものが出来たんです。子供心に「ここまで書いたモノは無いんじゃないか」と密かな自信。
提出後、先生から皆に返却されるとき、「今回の中で素晴らしい日記がありました。旅行先のことを詳しく書いてあり、ビックリしました・・」。俺のことだと嬉しくなりましたが、「それは篠崎君です。よく頑張りましたね」と。エッと思って篠崎(当時のライバルの一人)の顔を見ると、キョトンという顔をしてるんです。
「先生、違う。それは僕の日記でしょ。違うよ」と言いたかったんですが、なにせ小6です。結局、先生に確かめることもせず、誰にも話さず、悔しい思いをしました。私が最初に、文章に対して拘りというか意識をした出来事でしたね。
★やっぱり国語・作文が苦手
しかし、その後、中学に入っても相変わらず国語は苦手、作文もダメ。国語もいつも3。他の成績もまあ、平均で3,5と言った感じですね。だから読書も皆無。マンガ「巨人の星」に憧れて野球部に入りましたが、ウサギ飛びや他の練習が苦痛で半年で挫折。好きな女の子がバレーボールに興味あると聞いて、「サインはV」の影響もあってバレー部へ。魔球「稲妻落とし」なんかの練習もしましたが、当時は背が低くてやっぱり鍛錬練習がイヤ。結局、レギュラーになれず、2年でやめました。
で、高校進学のための受験勉強やってましたが、百道中学で同級の中村恵子という女の子が好きでスキで頭から離れず、かつ、天地真理や小柳ルミ子やチューリップに夢中になり、特に南沙織にはぞっこんで、さらに深夜ラジオ「青年は荒野を目指す」や「スマッシュイレブン」なんかに聴き惚れ、「ながら勉強」でウダウダ。生まれて初めて本を読んだのは「タイムトラベル」とかいう外国の小説で、それも何か本くらいは読んでおかないとという見栄のためでした。その頃も相変わらず国語・作文は大の苦手でしたね。
★高校受験裏口入学?
福岡市の地元高校では私立より公立が優秀で、私の学区でトップは西新にある修猷館高校=歴代の廣田首相やその他産官学に相当な人材を送り出している=でしたが、当時の私の偏差値では到底無理。
仕方なく校区で2番目の福岡県立城南高校に絞りましたが、ここも当落線上ギリギリ。滑り止めで、たしか西南高校を受けたかな?で、城南高校の受験になるんですが、ここで「裏口入学」の場面に自ら遭遇することになります。

自己管理

SOHOが自己管理する上で大切なのは、資金と時間と健康です。その中で一番疎かにしてしまいがちなのが、健康です。よく身体が資本といいますが、本当にその通りです。
※以前、クライアントに「あなたの実力とやる気は認める。けれども万が一、病気になったり事故にあったりして、この仕事が仕上がらなかった場合のことを考えると心配だ。」といわれたことがあります。
いくら実力があっても意志があっても、自分の身体が動かない場合はどうしようもありません。普段から健康でいることは何よりも大切です。健康であるからこそ、多くの仕事をこなし、自分の思いのまま生きていくことができるのだと思います。

SOHOのメリット・デメリット

 
▼メリット
1. 自分のペースで仕事ができる
2. 仕事を選択できる
3. 通勤時間の削減(HOの場合)
4. 仕事に集中できる
▼デメリット
1. 社会的な信用が少ない
2. 保証がない
3. 収入が不安定
4. 孤独感に悩まされる(個人の場合)
5. 責任の重大さ