連載第十七回目

★世間体を気にする人生
その当時、29歳でした。女性もそうらしいですが、結婚は30歳までにはしなければという強迫観念があり、つまり、世間体を気にしていたんですね。大学も最初の就職も今回も、他人から見て格好いいかどうかで選択している。自分に合っているかどうかではない。大体、そういうときは失敗しますね。でもね、29歳やそこらで天職なんか見つからない、わからないと思うんですね。それどころか40歳や60歳になってもわからないのが普通じゃないですかね。私がわかったのは44歳の去年の12月ですからね。そういうもんですよ。
親や評論家やマスコミや大学教授は「最近の若者はやりたいこともわからない。だからフリーターが多い」なんていいますが、それはあんたらがたまたま運良く早くに見つかっただけの強者で、そういう人は弱者=一般の人の気持ちや立場に立てない。だから、お前らの話は面白くないし、役に立たない。でも、マスコミはそういう成功者が好きだから、万が一の人だけを誉めて、でも一般人はそれに憧れるから、凡人なにの天才のマネをする。これを師匠の竹田先生は「天才バカボン」といってます。
経営に強者=大企業のやり方と弱者=中小零細のやり方の2通りがあるように、人生にも弱者には弱者のやり方がある。それを経営・起業系を説いたのが「小さな会社☆儲けのルール」です。この本ではページ数の都合で人生編を入れられなかったですが、それはメルマガや講演、下記にある「楽天日記」で公開してます。
★自殺を考える
さて、そんなノウハウがあるとはつゆ知らずの29歳。3つ目の会社もノイローゼ退社+婚約破棄破談+友人知人にも披露宴招待状を出していて、仕事・女・友人知人を失ったと思いこんだ私は、もう死ぬしかないかもと自殺を考えました。そして踏切に行きましたが、何かの記事で轢死は電車のダイヤを乱し、遺族への損害賠償がスゴイと思い出して断念。薬局で睡眠薬を買おうとしましたが、なかなか言い出せずにリポビタンDを買う始末。飛び降りは怖い。海や川は息がきつそう。ガス自殺は爆発がマズイ。それで車にはねられようかと道を車道に出てワザとフラフラ歩きましたが、体は車道に傾いても足が動かない。結局は死にきれず、彼女の待つ部屋へ帰りました。そして、実は自殺をしようと思っていたと話すと彼女は「なんで勝手にそんなことをしようとするの!?私はどうなるの?!」と泣いてくれました。そんな惨めな男になっても、まだ彼女は私を見放してなかったんです。感動しましたね。そして、彼女の付き添いで生まれて初めて、覚悟して精神神経科を訪問。うつ病と診断されましたが、その時点で会社も辞めました。
★退職・結婚キャンセル
何とか立ち上がって最後の日に会社に出ましたが、社内恋愛でしたから勿論、社内は全員事情を知っています。まあ、皆にしたら「がんばれ」とも「気にするな」とも、何も声をかけられないですよね。最悪の辞め方ですから。静かに挨拶をして会社を去りましたが、振り返ると社内恋愛だった彼女が、何もなかったように笑顔で仕事してるんです。本当に心が痛みましたが、もう何もできない。すまないという気持ちで一杯でしたが、その足で式場と新居の解約に行きました。式場には「式を辞めます」とだけ怒るように言ったんですが、顔を見て察したんでしょうね。「わかりました」と言っただけで手続きをすませてくれました。
そして、友人知人にも電話で「式はなくなった」とかけましたが、誰も理由を聞かず「わかった」と。まさに頭の中は真っ白になり、いったい俺はどうしたらいいんだと、それから数週間、途方に暮れました。

連載第十六回目

★やっと俺にも春が来た
仕事も恋愛も好調「やっと俺にも春が来た」と思った中途入社3年目、初めて新入社員の部下を持つことになり、自分の重大な欠陥に気づき、青ざめました。教えようとしても教えられない。特にリース契約の複雑な金利計算が???それに、契約書の複雑な文言もわからない。おそらく今は、そんなことは数字をポンと入れるとパソコンが自動計算すると思いますが、当時は手計算が主流。それをなんとか勘でやってたんですが、新人には一から理論的に教えないといけない。でも、説明が出来ないんですね。あの会社は営業が出来るというより、そういう社内事務や理論説明が出来るか否かも重大な査定対象でした(と思う。本当はそんなのどうでもイイと思うんですね。今は。だッて客には関係ない)。
で、同時に私と同クラスの同僚=年下の主任クラスも部下を持ったんですが、彼らの方が指導がうまいし、実績も上。つまり、同期生・年下の同僚よりも、明らかに実力が下だと認識し、努力はしたんですが焦ってばかりでダメ。なんと部下を持って1週間目にはノイローゼになりました。
★気がつけば出社拒否
部下は可愛い同じ立命館出身の女の子。だから余計、国立一期校・早慶や関学・同志社なんかには負けられないと思ったんですが、やはり俺は立命館なんだみたいな劣等感も強くなり(笑うでしょう)。
でもそんな出身校色眼鏡は明らかにあった。周りも自分も)昭和63年のGWの頃には完全に落ち込んでいました。さらに複雑な案件=リース予審審査を巡ってIBMとの板挟みも重なり、しかし、ここでまたヤマハの時と同じになってはダメだと踏ん張りましたが、気がつけば出社拒否をしてました。つまり、会社と仕事から完全に逃げたんです。数日後、なんとか這うように出社はしましたが、目はうつろ。実はこの頃、婚約も決まっていて、式場も案内発送も終わっていた。それも社内恋愛でしたから、会社を辞めるわけにはいかない!ちょうど行われたゴルフの社内コンペに出て、「あれは単なる過労だったんだ」と振る舞いましたが、忘れもしません。ナイスショットを打ったあと明るく振る舞い、一緒に回っていた常務に話しかけると、明らかに「何だお前は。ノイローゼらしいな」みたいな無言の顔で無視されました。
★精神内科を訪れる
大ショックでしたね。「そうか。もう、東京の役員まで俺がダメだという情報が回っているんだな。サラリーマンとしては、もうお終いだ。また、ヤマハの二の舞だ」。それから数日後、またも出社拒否。彼女も心配してくれて励ましてくれましたが、もうどうしようもありません。生まれて初めて精神内科を訪れ、ウツと診断されてクスリを貰いましたが一向に効かない。当たり前です。別に精神を病んでいるのではなく、原因は仕事が出来ない、もう出世は出来ない。それどころか、結婚ももうダメだ。トドメは招待状も出している。仕事、女、友人知人・・・全ての信頼を失ったと思って町を放浪し、私は死に場所を求めました。

連載第十五回目

★3社目の転職
26歳で3社目の転職でしたが、この頃も全く文章で食っていくなんて想像もつきませんでしたね。
バイク営業→求人広告営業→コンピュータのリース営業と脈絡ない転職。ただ、リクルート時代と違って今度は正社員なので、なにか安定感というか、これで堂々と胸を張って生きていける。恋愛も結婚もできるぞという気持ちはありました。
しかし、前にも書きましたが、このCSLは日本IBMとモルガン銀行とオリックスの3社ジョイントベンチャー。学歴も頭も優秀な人達ばかりで、国立一期校と早慶クラスばかり。私なんかは下の下。「お前は立命館か。まあ、新卒なら無理だな」みたいな目で見られ、実際に「よく入れたね」とも言われましたね。
仕事はIBM専門のリース営業。つまり、毎日IBMの営業所に顔を出し、営業マンをつかまえては「なんか案件は無いですか?」とやる仕事。要はIBMが売り込みに成功したあと、コンピュータを導入したお客を紹介して貰ってリース契約を貰うのです。つまり主導権がほとんどない。「これはどこかで経験した仕事だ」…そうです。ヤマハ発動機の時と同じく、決まったお客に顔を出すルートセールスでした。
★苦手なルートセールス
入社1ヶ月目で冷や汗が出てきました。ヤバイ。これはどうも俺に合わないのではないか…。でも、もう3社目だし、こんなイイ会社には2度と入れないぞ、なんとか頑張らねば。でもIBMの営業マンお尻を振ってお願い営業は嫌だ。それで私がとった行動は、「そうか。IBMよりも先にお客を見つければいいんだ」と、大阪の町を飛び込み営業し始めました。つまり、コンピュータを導入しそうなお客を見つけ、IBMを提案すればいいんだと。
「???」。課長の細川さんは目を丸くしてましたが、これがさすがの人で「まあ、やってみろ」と泳がしてくれましたね。
しかし、当然ながら全く売れません。当時は汎用コンピュータやオフコンが全盛の時代。1台数億~安くても1000万円台で、パソコンじゃあるまいし、わけのわからないリース屋が「コンピュータ入りませんか?」とやっても売れるはずがないですね。コリャダメだと1週間で諦め、またIBMの営業所に顔を出す日々が続きました。
★今度こそはうまく行きそう
そして、IBMから紹介して貰ったお客に「IBMは高いなあ。中古ないの?」と言われ、IBMは最高級品で会社はリースアップの中古も扱っていたので提案すると、「新品の営業妨害だ!」とIBMから怒られたり、「金魚のフンのくせに偉そうな提案をするんじゃない!」なんて言われ、悪い予感が広がっていきました。
ただ、そんな中でもIBMも諦めていたハイセンス(現在の通販会社フェリシモ)に大型の3083という中古の大型コンピュータを売るなど少しは面白みを見出し、社内でも存在感を示すことができました。
元々、ノルとお調子者ですから、皆と毎晩カラオケに行ったり、合コンみたいな休日活動をやったりして、「今度こそはうまく行きそうだ」と入社2年目には思いました。
その頃には高校2年以来、社会人になって初めての素敵な彼女も出来、29歳になった年には結婚も考えました。「やっと俺にも春が来た」。ところが中途入社3年目、初めて新入社員の部下を持つことになり、自分の重大な欠陥に気づき、青ざめました。

連載第十四回目

★不合格でやる気を失う
リクルートの正社員になることしか考えてなかった私は、不合格となって完全に目標を失いました。毎日朦朧としていて、営業もできません。そのことを素直に話すと、マネジャーは私を新人のリーダーみたいな立場にしてくれ、現場の一線から引きました。まあ、そんなヤル気のない人間の下になった同僚もたまったもんじゃないですね。たしか1年経てば、再度、正社員試験を受けられたんですが、そこは意地っ張りで素直じゃない性格(恋愛だと、結構振られてもアタックしたんですがね。全部撃沈でしたが)。こうなったら、リクルート社よりも難しい会社に就職してやろう、そして皆を見返してやろうと、同じ広告会社では地位が上の「スタンダード通信社」や「帝国データバンク」、日経ビジネスを発行している「日経BP社」の販売会社などを受けましたが、まだ傷が癒えないのと実力経歴不足で不合格。同じリクルート子会社の販社・東京リクルート企画からも話は貰いましたが、もうリクルート関連はいい。私がいたリクルート人材センターは現在のリクルートエイブリックで、本業は民間人材銀行。登録すると様々な会社を紹介してもらえるんですが、なんか身内ではやりにくいし嫌だ。そうこうするうち、人材センターOBで「ターン具ポイント」という人材銀行を起業していた小松さんと橋本さんを訪問。そこで「コンピューターシステムリース:CSL」という会社を打診されました。
★優良ベンチャー企業の就職試験
当時、この会社は知る人ぞしる優良ベンチャー。株主は日本IBM・オリックス・モルガン銀行で、IBM専門のリース会社でした。
当然、リクルート人材センターも取引があったんですが、東大や京大や早慶の優秀?な人を紹介しても、採用基準が高くてなかなか採用されない。なにせ、このビッグ3、3社の基準をクリアしないといけないので、リクルート社内でも話題の会社でした。「ああ、CSLか。格好いいな。でも、俺なんて無理に決まっている」と思ったんですが、小松さんから「受けるだけ受けてみれば。練習、練習」と言われ、気楽に受けてみたんですが、これがまた何を間違ったのか合格してしまった。過去の採用基準ではどうみても無理なのに。
まずは大学。私は立命館大学でしたが、中途の場合は国立一期校+早慶+同志社・関学まで。立命館は最低レベルでした(もうこんなの関係ないですがね。昭和60年当時、こういうエリート系の会社では歴然と学校差別はありましたよ。一部の遅れた大企業は今もかな?)。「やった!!CSLなら、誰に対しても恥ずかしくない。俺を落としたリクルートの連中にも堂々と胸を張れる!」と思い、すぐに即決で入社を決意。
★大阪支社勤務に
一つ残念だったのは、入社の条件が大阪支社勤務。愛するりっちゃんや田子チャンや、その他東京時代に知り合った青春人脈と離れるのは凄く寂しかったですが、まあ仕方がない。当時26歳でしたが、もう落ち着きたかった。つまり、それまでは対外的には「リクルートの栢野です」なんてお客にも友人にも行ってたんですが、実際はアルバイトの身分。これがもの凄く恥ずかしかったし、常に精神的・経済的に不安だった。正式な恋愛も結婚でもできないと思っていましたね。そういうバイト社員の悲哀もわかるのか、リクルートの皆も喜んでくれ、盛大なお別れパーティを開いてくれました。50人くらいから励ましの色紙をもらい、挨拶を終えると突然、「贈る言葉」が流れてきました。
♪暮れなずむ町の~・・・・
これから始まる 暮らしの中で だれかがあなたを 愛するでしょう
だけど私ほど あなたのことを深く愛した ヤツはいない 
遠ざかる影が 人込みに消えた もう届かない 贈る言葉♪
ある人が飲み会で「栢野は論文大会で準優勝し、営業成績も新規でトップクラス。ある時は強引な営業をやりすぎて警察を呼ばれる営業もし、社内恋愛も活発でフラレまくる・・・。まあ、いろんな話題を提供してくれたね。その栢野がCSLという素晴らしい会社に就職が決まり、そして東京を、リクルートを離れていく。まさに別れであり、新しい人生が始まるんだね」と言ってくれましたが、まさにその歌は私のとって最高の卒業歌。悲喜こもごものリクルートの3年間が甦り、そしてもう、皆と今日でお別れなんだと思うと、またも号泣しましたね。悲しくて切なくて。でも、これからは一人で歩いていくんだと、見知らぬ大阪へ旅立ちました。まさに後ろ髪を引かれる気分で。その3年後、最悪の状態で東京に戻ってくるとは思いもしませんでしたが

連載第十三回目

★社内論文大会の結果
バイト社員だしと諦めていたリクルート人材センター(現リクルートエイブリック)の社内論文大会ですが、結果はなんと銀賞のシルバーシーガル賞。第2位です。当時はたしか全社合わせても100人?位だったと思いますが、バイト社員が入賞するのは前代未聞の奇跡!と大騒ぎになりました。へー、あんな日記がそうなの?という感じ。
よくわかりませんが、「理論や理屈抜きで、営業のリストアップからアプローチ、最初の飛び込み営業で断られ、でも諦めずに再度チャレンジして受注。ところがキャンセルされて一度は諦めたが、再度客のことを考えて独自商品を編み出して再び受注・・・という臨場感が良かった」と、営業部長の松原さんから誉められました。
そしてある人から「本当は内容では栢野が金賞だった。でも、やはりバイト契約社員を優勝にするのはマズイ」という噂も聞き、悔しい思いもしましたが、まあうれしいことには変わりない。賞金もたしか20万くらいもらいましたね。でもそれは日経ベンチャー研究会?という日経新聞主催のビジネス交流会への入会金・年会費に使いました。なかなか大した使い方でしょ。こうした出来事もあり、かつ、営業成績も新規開拓では社内トップクラスだったので、徐々にというか、自分も周りも「正社員になる」という意識を強烈に持つようになりました。
★社員試験を受ける決意
中途採用広告の営業では数百社を回りましたが、なかなかリクルート以上に魅力ある会社はない。やはり、ここしかない。それと、当時は社内で恋愛営業も複数の女性に相当かけていて、特に中村りつ子さん=通称りっちゃんが大好きで、彼女は司法書士を共に目指す彼がいたんですが、正社員になれば正々堂々と告白・交際を申し込める。バイト社員の身分ではダメだ。ナントしても正社員に!と日に日に気持ちは高まっていきました。実はその前に、私の先輩で相当できるMさんが社員試験を受けたんですが撃沈。あの人でも落ちるのかと動揺しました。その他も、バイト社員は正社員を目指してやってましたが、まあ、95%以上は不合格でしたね。今はどうか知りませんが、当時の基本基準は「リクルートの同じ年齢の正社員トップクラスと同等の実績・資質を持つモノ」しか正社員には慣れないという不文律がありました。だから、新規開拓でトップ+論文大会で2位という実績もスレスレか。
★最終役員面接へ
そしてついに正社員試験を受けることに。当時はリクルート人材センターは親会社の(株)リクルートに人事権があり、まずは人材センター社内では合格。次は(株)リクルートの人事部面接でこれもクリア。ザマアミロ、やっぱり俺は出来るんだと思い、社内の同僚達も「栢野なら大丈夫だ!」と、実は最後の面接=本社取締役面接の前日「栢野正社員昇格!前祝い飲み会」を朝の4時までやってくれ、二日酔いの状態で最終面接に臨みました。覚めた頭で考えると、当落ギリギリか、やはり実績で足りない。ここは一発バクチを打たねばと、ある言動をしようと決めました。で、最終役員面接。次々に質問が飛び交い、順調にクリア。そして最後の「何か言っておきたいことはあるかね?」で、まってましたと「実は私はリクルートには長く居るつもりはありません。まあ、長くて5年ですかね。リクルートは求人広告がメインですが、私は何かの商品広告の新媒体でも創り、独立起業したいですね」と言いました。なんで社員試験なのに辞めるなんて言うのだと思うでしょうが、リクルートの社風は「社員皆起業家精神」。会社にしがみつくのではなく、独立するような社員が好かれると勝手に解釈し、その気概を訴えてやろうと思ったのです。
★そして発表
こうして最終面接も終了。あとは結果を待つだけですが、数週間が過ぎてそろそろ発表の頃かなと考えていると、マネジャーの澄谷さんから「栢野、ちょっと応接へ」と肩を叩かれました。いよいよだなと期待半分不安半分で部屋へ。しかし、澄谷さんの顔が暗い。
「残念だがダメだった。△□・・・」。何か理由を言っていた気がしますが、もう上の空。まさに星飛雄馬が恋人の美奈さんから「私は癌で死ぬの」と言われたときのように「ガーーン、ガーーン、ガーン」と言う感じ。何とか机に戻りましたが、働く大好きな皆の姿を見ながら、「ああ、もう俺はここでは働けないんだ。皆との楽しい日々はもう終わりなんだ。りっちゃんとももうこれでダメだ」と思い、また、土下座してお客に無理矢理受注を恵んでもらったこと、応援してくれたお客、澄谷さんや同僚との大ケンカ、年間目標達成で大喜びしたこと、最高の社内旅行…まさに走馬燈のように過去の思い出が甦り、こらえようと思ったんですが号泣しましたね。皆がいる前でです。声を出さないようにしても止まらない。泣きながら自分でもビックリしたんですが、本当に心の底から悲しかった。
まあ、今から考えればまだ若い26歳でしたが、40歳の時に大変世話になったある社長が突然亡くなった時と同じくらい、泣きました。
澄谷さんが別室にまた連れて行ってくれましたが、ヤマハをノイローゼで辞めたとき以上に、深く深く絶望しました。何で俺はまたダメなんだと。今後のことは勿論、何も決まっていませんでした。

連載第十二回目

★営業にのめり込む
リクルート人材センターでの求人広告営業は、まず各営業マンが飛び込みや電話アポで企業の社長や担当者と面談。ニーズを確認すると、求人広告を作るための簡単な取材をします。といっても、営業マンは皆書くことが本業ではないですし、求人広告の大半は1/2や1/4ページの小さなモノ。数十ページのパンフレットを作るのではないですから、大概は募集要項のヒヤリングと既存の会社案内などをもらい、それを持ち帰って社内の制作担当に広告を作ってもらうというものでした。
当時はとても、自分で原稿を書くなんて考えは全くありませんでしたし、書いたこともないです。ただ、面白い社長に会うと、仕事はそっちのけで主に「人生+創業物語」を聞いていました。自分が最初の就職で失敗していたということと、リクルートはバイトから正社員になるのが大変難しく、次の転職先第1希望はリクルートの正社員だが、どこか他にもイイ会社がないかなと探すついでに様々な話を聞きましたね。こうしてあんなに嫌だった営業の仕事ですが、この営業にはのめり込み、新規開拓部門では社内でまあまあの実績を計上。数ヶ月後にはバイトから月給制の契約社員に昇格し、次は正社員!と夢見ていました。
★シーガルコンテスト
そして、入社2年後、リクルート社内で論文大会「シーガルコンテスト」が実施されることになり、主立った営業マンは契約社員も含め全員、営業論文を書くことに。しかし、私は昔の学校での作文が書けない悪夢が頭をよぎり、全く書こうとはしませんでした。前にも書いたように、大学時代から毎日日記を書いてはいましたが、それとこれは違う。俺は単なる営業マン。書けるはずがないと諦めていましたね。でも締め切りが近づくに従い、同僚の「できた!」なんて言う声を聞いていると、段々と焦ってきました。正社員を目指すのなら、やっぱり出さないとマズイと、1週間前から仕事が終わった夜に会社で残業。うんうん唸りながら書き始めました。でも、やっぱりダメなんです。書いてる途中で投げ出し、会社の床に寝ころんで仰向けになり「ああ~書けない!もうダメだ!」と叫んだことを鮮明に覚えています。すると、当時の営業庶務で田子さんという可愛い女性(後にアタックして振られる)が「も~、ガンバってよー」と言ってくれ、数分後に起きあがってまた書き始めました。
文章の書き方を習ったこともないし、そういう参考書を読んでもいない。どうやって書いたらいいんだと悩んだあげく、「もう、しかたない。普段書いてる日記のように、あの会社からどうやって受注したかを時系列に書こう。要は、営業日報の延長だ」と、論文?書きを再開しました。
★最終選考に残る
題材に上げたのは3社。半導体製造装置の中央理研、薬品のベーリンガーマンハイムジャパン、半導体関連のデータプローブ。
いずれも新規開拓営業を私がどうやって取り組んだかをほとんど見直しもせず、当時はワープロは使えませんでしたから、原稿用紙に鉛筆?で書いていきました。ある論文はこんな感じです。
「ある日曜日、彼女のいない私は月刊誌<日経ベンチャー>を読んでいた。するとそこに、経営セミナー&交流パーティの記事があり、こんなところに行けば社長連中とグラスを傾けながら、様々な話ができるのではないかと思い、出かけることにした。皆、社長ばかりでどうみても私が一番若い。怖じ気づいて会場の隅にいたところ、スグ横の人が話しかけてきた・・・」
こうしてなんとか形を整えて論文を提出。数日後には忘れて日々の飛び込み営業にいそしんでいました。その後、たまにシーガルコンテストの話を聞きましたが、所詮、私はバイト&契約社員。賞の対象になるはずもないだろうと、諦めていました。しかし、その1ヶ月後、ある先輩から「栢野の論文が最終選考に残っている」と聞き、「ええ?まさか。そんなことがあるわけないでしょう」と、まあ少しは期待しましたが、完全に半信半疑。仕事が終わると、毎晩のごとくカラオケや飲み会に行ってました。

連載第十一回目

★求人雑誌Bingの営業
ヤマハのバイク営業に9ヶ月で挫折した私は「俺は利益追求の民間企業には合わない」と、夏までの公務員試験までのバイトとして東京・西新橋のリクルート人材センター(現リクルートエイブリック)に転職。本業は人材紹介業でしたが、なぜか私は求人雑誌Bingの営業をやる新規事業課に配属されました。
営業は嫌いになってましたが、まあバイトならいいだろうと軽い気持ち。ところが、知ってる人は知ってますが、リクルートはバイトを正社員並に使いこなす会社。現場の仕事はまったく正社員と同じで、私と同じようなバイト・契約社員が約半数いました。仕事は、ホンの前まで私が職探しで見ていた求人広告の注文を取ってくる仕事。飛び込みやハローワーク・新聞の求人広告をリストに「良い人材を採用する予定はないですか?今はこういう専門雑誌に出せばいいですよ」なんてことをやり始めました。最初の数日は「しまった。前のヤマハの固定客回り営業もできなかった俺が、こんな新規開拓はできない!」と思ったんですが、逆にその自由さに惹かれました。
★嫌な客だったら2度と行かなくていい
顧客ゼロからのスタートでしたが、営業に行って嫌な客だったら2度と行かなくていい。自分の好きな、合う客を見つければいいというのは、私にとってはそれまでの営業に対する偏見が良い意味で崩れ、嬉々として飛び込みに夢中になりました。
勿論、100件回ったら99件は「いらないよ。間に合ってる」と断られるんですが、いろんな会社がのぞき見でき、世界がパーと広がりましたね。また、当時の営業リストは新聞求人広告でしたが、それは同僚や他営業所・グループ会社もやっている。「またリクルートか。いらんよ」と言われるのが嫌で、何か競合しないリストはないだろうかと熟考。広告ではなく、新聞記事を思いつきました。日経、日経産業、電波新聞・・そういう新聞には毎日、「中央理研が新商品を開発」とか「東京エレクトロンが工場を拡充」などの発展情報が載っており、そういう会社なら人材も必要になるはずだと、毎朝早く来て各新聞をチェック。104でその会社の電話番号を調べ、アポを取りました。
★営業とは、相手のことを聞くこと
こうして、事前のリストアップの際に多くの新聞を読むことで勉強ができ、未知の人に会うために営業力・積極性が身に着く。さらに、会ってからは新聞にない生の情報が聞けてさらに勉強になる。こういう一連の活動での一番の楽しみは、創業経営者の話を聞くこと。たとえ注文が取れなくとも、その会社がどうやって生まれ、創業者がどういう人生を歩んできたのか。24~25歳のガキですから、多少、新聞は読んでいても、真の経営も人生もわかりません。それで素直に「なぜ、勤めていた会社を辞めたんですか?」「なぜ転職を?」「どうして社長は今の事業をやろうと思ったんですか?」「苦労や挫折は?」と、次々に質問をしていきました。つまり、私自身が就職に失敗して今後の人生をどうしようか迷っていたので、この社長の場合はどうだったんだろうと、商売そっちのけで興味を持ちました。すると、特に創業社長の場合、どんな小さな会社でも様々な物語があるんですね。最初は「忙しい。5分だけだ」と言っていた社長が、気づけば2時間も自分の人生を話してくれることがよくありました。面白いことに、こういう展開で聞くことに徹すると、「君は面白いヤツだな。ところで何の営業だ?求人広告?よし、出そうか」ということがよくありました。こっちはほとんど話してもいないのに。後日、様々な営業の本を読むと、「営業とは、相手のことを聞くこと」「人は、自分のことを知っている人を好きになる」と言うことを知りましたが、まさにこの仕事は一石二鳥だと思いましたね。
また、当時、昭和58年~60年は第2次ベンチャーブームでもあり、有名どころでは日本ソフトバンク(現、ソフトバンク)、テンポラリーセンター(現、パソナ)、パソコンのソード、大日機工、チェスコム(現、ベルシステム24)などが活躍していました。
既存の大手企業や古い会社の場合、求人広告も大体どこかと既に取引があったので、私はこのベンチャー系・新興企業を中心にリストアップ。創業社長の人生=大体が転職や挫折経験がある=を聞くのが楽しくなり、当初の公務員になることはすっかり忘れ、毎日の新規開拓に夢中になりました。それはつまり、人の人生物語を聞くことで、結局は自分探しをしていたのです。
でも、魅力的な社長に会っても、まさか自分も起業するなんて考えもしなかったですね。むしろ、様々な会社を知れば知るほど、リクルート・リクルート人材センターの素晴らしさがわかり、社内に好きな女性ができたこともあって、「なんとしても正社員になりたい!」という気持ちが日に日に募っていきました。

連載第十回目

★辞表を出す
こうして学歴あれば勝てる!という傲慢さで自滅。新卒で入社したヤマハ発動機は、入社したその年の年末にノイローゼ退社。でも、優しい会社&所長でしたね。最初に多摩営業所の渡辺所長に辞表を出したのは10月頃でしたが、まあ一応拒否してくれました。まだやれるということと、今辞めたら年末のボーナスがもらえないぞ・・みたいなことを遠回しに言ってくれて。まあ、でも全くのウワの空で夢遊病患者のよう。再度頑張ろうとは思いましたが、全く足が会社とお客に向かない。再度年末に辞表を出し、さすがに諦めたのか受け取ってくれました。あの時は本当に、人生はコレで終わったと思いました。「転職」なんて全く考えていなかったし、所内に中途入社の人がいましたが、中途=仕事が出来ない人・落ちこぼれというイメージでしたしね。有名大学を出て一流企業。その後は出世競争を勝ち抜いて部長、役員、社長になる!という研修時代の夢は、アッという間に壊れました。
★公務員になろう
それも一番ガンバってホラ吹いてた自分が、一番最初に挫折するなんて。少林寺拳法で鍛えた精神力?なんてどこにもありませんでした。当然ですが、退職したら寮も出ないといけません。しかし、とても田舎には帰れない。一人博多にいる母親にも内緒にしてました。母は天下のヤマハ発動機に息子が就職したということで、あんなに喜んでいたのに。友人知人にも自慢でしたからね。恥ずかしい。たまに就職失敗やリストラで自殺したり、自棄になって犯罪を犯す人がいますね。それも意外に高学歴の人が。あの気持ちはわかります。人から見たらなんで?みたいなことでも、出世のレールから外れることは怖い。精神的に病んでも、悩みがあっても人には話せない。そんなことが会社にばれたら、もう出世は終わりだと思いますからね。特にプライドだけの高学歴・一流会社のサラリーマンに多い。よく、週刊ダイヤモンドなどで「出身大学別の出世ランキング」なんてやるでしょう。あれはねえ、実は相当な読者がいるんですね。一部のバカ大企業・官庁を除き、もう10年前に学歴主義は崩壊しましたが、あれを見て安心するんですよ。バカなヤツは。「今は目が出てないが、俺は早稲田大学だ。出世ランクでは第4位。だから大丈夫だ」なんてね。何を隠そう、私もそういうランク表を見て慰めてましたよ。俺は立命だから、国立一期校や早慶には負けるが、まだまだ無名大学には負けない」なんてね。バカな話でしょう。でも、あれ結構当たる企画らしいんですよ。サラリーマン真理を突いてる。まあ、しかし、私の場合は「営業」という仕事に挫折し、ああ、俺は利益を追求する仕事は出来ないんだな。お客から「もうヤマハのバイクはいいよ」と言われると売れない。何より、利益=儲けることは罪悪だという気持ちが頭から離れない。商売は100円で仕入れたら130円で売るのが当然ですが、どうも騙しているようで嫌だ。私はこう、青二才の頭で考え、利益に関係ない公務員になろうと考えました。
★リクルートにリクルート?
少林寺拳法もやっていたし、警察官なんかがいいかな、太陽に吠えろ!みたいに、松田優作みたいになれるのではと考え、公務員試験の参考書をとりあえず買いました。しかし、寮を出て東京杉並区阿佐谷のアパートに引っ越すと、もう金がない。親に頼るわけにもいかん。何か仕事をせねばと週刊就職情報=現在のBingをめくっていると、「日本リクルートセンター企画営業アルバイト募集」の求人広告が。「ああ、下宿にあの役に立たない段ボールの山=リクルートブックを送ってきた会社か。俺は上場会社以外は興味ないから捨てていたなあ」と思いながら仕事内容を読むと、「アポイントの後、企業取材をして原稿制作・・・」という項目に目が止まり、なんだか営業みたいだけどまあいいか。どうせ、夏の公務員試験までのバイトだと、軽い気持ちで履歴書を送りました。数日後「なんでバイトなのに6人も面接官がいるの?」と思うくらい真剣な面接。その後の適性検査と教養試験もボリュームたっぷり。1週間後、子会社のリクルート人材センターから採用の電話があり、まあいいかで初出社したのが昭和58年の1月休み明け。待っていたのはビルの飛び込み営業でしたが、これからの3年間が私の人生を変えたのです。

連載第九回目

★俺は人生に勝った!
こうして新卒で一部上場企業のヤマハ発動機に入社。有名大学→一流企業に就職が人生の成功だと100%思ってましたので、「俺は人生に勝った!」と思いました。商売や独立起業・SOHO(そんな言葉はなかったですが?)それは駄目なヤツがやるもんだとね。
いざ静岡県磐田市のヤマハ本社へ。5年過ごした京都の下宿を買ったばかりのヤマハ・ミッドナイトスペシャルで出るときは、涙が出ました。俺の青春よ、さらば。これからは闘いだとね。でも、イザ走り出そうとしたらエンスト。下宿の西田オバサンや後輩達もガックリで私も恥ずかしかった。映画のような決めないといけないシーンなのに・・。
で、一路京都から磐田市へバイクを走らせ、研修センターに到着。2ヶ月の合宿勉強+工場実習の日々が始まりました。講義は退屈でしたが、合宿は楽しかったですね。全国から約200人。昭和57年。
ヤマハ発動機も原付のパッソルやRZ250というカッ飛びバイクが全盛期で、イイヤツばかりでした。しかし、同期=出世のライバルです。普段は笑いながらバカヤッテましたが、夜は経済学や経営・営業本を深夜2時まで読破。負けるもんかと気張ってましたね。
そして、合宿研修最後の成果発表の日。リーダーの私が率いるグループが優勝し、「どうだ。やっぱり俺が抜きんでている。お前らとは違うんだ」と真に思い、まわりにも「栢野。お前は社長だな」と言われました。
★東京多摩営業所に配属
配属申請でも、「ヤルなら日本一の東京だ」と東京支店を希望。府中の多摩営業所に配属となりました。ここで営業所の同期だったのがメルマガ・本の「営業マンは断ることを覚えなさい」の石原明。
先日、20年ぶりに会いましたが、今や年収数千万円の一流コンサルタントでビックリしました。で、まあ、そんなこんなでヤマハ人生が始まったんですが、仕事はバイク屋さん廻りの営業。取引のある店を周り、店主のオヤジと適当に話をして、ホンダやスズキよりもヤマハのバイクを店頭に並べてもらい、在庫として買い取ってもらう仕事でした。それまで沢山の経済・経営・営業の本を読んでましたから、まあ軽いモンだと思ってましたね。しかも、相手は高卒や中卒なんかの店主。頭の良さでは負けないし、少林寺で鍛えた体力と精神力もある。そしてライバルの営業マンは皆、高卒(ヤマハだけが現場の営業も大卒でした)。全てにおいて勝っていると。
★営業成績は最悪
ところが、いざバイク屋サンを廻ると、言葉が出てこない。何を話していいのかわからない。バイクのことは相手の方が詳しいし、経済経営の話なんかをする雰囲気じゃない。どうも店主が好きな話題は、酒や女や遊びの話ばかり。私はそんなことには興味ないし、やっぱり大学出てないヤツはバカだなあと見下しました。ところが(当然?)、ライバルのホンダやスズキの営業マンは店主と仲良く長時間話をしているが、私は立ち寄って在庫や部品の用事がなければ、バカ話をしてもしかたないと退散。そして徐々に、私と店主との間で溝が出来てきました。
まあ、今考えたら当たり前ですね。お互い、嫌ってるんですからね。私はハナからバカにしている。相手も「この大卒の青二才が偉そうに振る舞いやがって」だったでしょう。
今はどうか知りませんが、当時のメーカーの対小売店営業実績は、毎月末にノルマ達成のために在庫を押し込み買い取りさせ、月初めに赤伝(キャンセル伝票)を切る。まあ、人間関係を絡めたお願い営業です。バイク自体は性能にそう差があるわけでなく、それどころか私が入社した年、ホンダはヤマハの機種に総攻撃をかけてきました。原付から大型バイクまで、タクト、VT250、オフロードのXL…。ライバルながら本田のバイクはイイなあと、心底思いましたね。根がバカ正直なので「今はヤマハのバイクより、このホンダのバイクを扱った方が店にとってはいい」と思うので、ヤマハのバイクは売れない。その前に、人間関係がない。だってね、もう夏頃には、バイク屋の前に行くだけで虫酸が走るようになったんです。だから、月末の押し込みお願い営業なんかできない。気づいたら、人のいない道路に車を止めてサボったりし始め、秋には下宿に籠もるようになりました。
「会社に行きたくない。お客に会いたくない」とノイローゼ。当然、営業成績も最悪で、おそらく全社で最低クラスだったでしょう。だって、営業に行かないんですからね。入社半年、「俺の人生は終わった」と心底思いました。残念ながら、この頃は日記をつけていませんでしたね。

無断でリンクを張ることは著作権侵害?

あなたの運営しているHPに対し「無断でリンクを張らないで下さい。あなたの行為は著作権侵害です」というメールが突然届いたとすれば、あなたならどう思いますか?
無断でリンクをしたのは確かだけど、このリンクからそのサイトへアクセスする人がいれば、少なからずアクセスアップに貢献することになり、感謝こそされども、抗議されるなんて!! リンクされたくなければ、パスワード制限でもして、外部からはアクセスできないようにすればいい!!
と思ってしまいたくなるかもしれません。
実際、社団法人著作権情報センターでは「リンクを張ることは、単に別のホームページに行けること、そしてそのホームページの中にある情報にたどり着けることを指示するに止まり、その情報をみずから複製したり送信したりするわけではないので、著作権侵害とはならないというべきでしょう。」との見解を公開されています。
※社団法人著作権情報センターは、著作権・著作隣接権関係の公益法人等29団体を正会員とし、賛助会員705者を擁して、グローバルな活動を展開している社団法人です。
http://www.cric.or.jp/
また、リンクを張る事に対して届出を要求しているサイトがあり、それを無視をしてリンクを張ったとしても、法的には差し支えがないそうです。
→ マルチメディアと著作権Q&A
http://www.cric.or.jp/qa/multimedia/multi15_qa.html
▼各新聞社(一部)のリンクについての断り書きについて
・朝日新聞
http://www.asahi.com/information/link.html
営利を目的とせず、フレームなしで行うなど一定の条件を満たしている限り、原則として自由。しかし、リンクを張った場合は、そのホームページの内容とアドレス及びリンクの趣旨、名前、連絡先などをlegal@emb.asahi-np.co.jp宛へ連絡する。場合によってはリンク自体を断る場合がある。
・読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/policy/copyright/
内容によってはリンクを断る場合があるので、リンクを希望する場合は、ウェブページ名とその内容、リンクの目的、名前、連絡先を、読売新聞社(webmaster@yomiuri.co.jp)へ連絡する。
・産経新聞
http://www.sankei.co.jp/pr/copy/001006tyosaku_01.html
内容によってはリンクを断る場合がある。リンクは各コンテンツのトップページにすること。個別記事へのリンクは不可。
では、勝手に記事の内容を表示してしまう検索エンジンの立場は?検索エンジン(ロボット)からのアクセスをシャットアウト?新聞記事自体を全部画像にして、文字データとして認識させないようにするとか?
確かにヘンなコメントをつけられてリンクをされたりしますと、とっても困る場合も出てきますが…。
※SOHO’s Clubも内職斡旋サイトなんていうコメントをつけられ、リンクを張られたり、雑誌などの紙媒体にまでそういった困った内容で紹介される場合があります。 それだけならまだ良いのですがそれを見た人が「仕事なんて全然紹介しないじゃないかっ!!どうせ個人情報を集めて売ってるんだろう!!詐欺!!」というメールを送って来られることだってあります。 最近はもう来なくなりましたが(^^; こういうことがあると確かに迷惑ですけれども、無料で紹介・宣伝してもらってるわけですし、より多くの人に見てもらってなんぼ!!っていうのもあると思いますからね…。 まぁ企業にとっては死活問題にもつながるかもしれませんが。
インターネットはもともとの性質から、100%の保証はない世界です。 メールだって必ず届くとは限りませんし、行きたいサイトに必ずつながるとは限りません。 そんなルーズなところをよしとしたからこそ広がったネットワークなのですから、ハイパーリンクという素晴らしい機能の制限はせずに、拡大させていく方に力を注いでほしいと思うのは私だけではないと思います。
【参考】
ネットワーク上の新聞・通信社の著作権 (日本新聞協会)
http://www.pressnet.or.jp/info/kenk19971100.htm
リンクに許可は不要です (松阪大学政策学部奥村晴彦教授)