★課外活動開始
こうして再度のリーマン生活が始まったわけなんですが、課外活動も2つやり始めました。その一つが今月で第125回になるビジネスセミナー交流会「九州ベンチャー大学」です。約20年ぶりの福岡だったので人脈がない、友人もいない、彼女もいないで、最初はアチコチの交流会へ行きました。東京時代にそういう会に出まくって勉強になっていたんでね。ところが適当なオモロイ会がない。商工会議所や同友会、ライオンズクラブなどは社長じゃないと出れないし、どうも既存体質に浸っている。若手の会はJCや何とか青年部なんかはあるが、実態はツマラン飲み会や政治活動バッカ。他はナンパなネルトンクラブみたいな感じ。ならば自分でヤルかと、知り合った帝国データバンク江口記者、雑誌「ふくおか経済」近藤・緒方記者、西洋環境開発の営業マン富崎氏などに声をかけ、たまたま東京時代最後の勤務先:出版者・ビジネス社の花田社長が博多へ帰郷すると聞いたので、コリャちょうどイイと、東京最新事情でも話してと、居酒屋に5人ほど集まりました。で、結果は「異業種で会社が違うと本音が出て面白いね」で、じゃあ来月も集まるかと、私が営業先なんかで知り合った社長なんかを騙して講師にし、5人が7人、10人、15人と毎月開催。気づけば11年目で今では毎回約100人が参加する、バックが何もない在野の会では日本最大級(月刊<ビジネスチャンス>常磐井記者、経営者向けメルマガ日本一<がんばれ社長!>武沢さん他の談)になっていました
★九州ベンチャー大学
このセミナー交流会は毎回参加費が<飲み食い放題パーティ付き>で4000円。入会金も年会費もナシ。いつでも自由参加で、講師の謝礼も当初数年はゼロ(今は1万円)。会則も「マルチ的ネットワークビジネスや強引営業&恋愛禁止」程度であとは自由。会長も何とか委員長も作らない。私も「単なる事務局」でやってきました。
これは全部、東京時代に「自分がイヤだな」と思ったことの反対です。ある意味簡単で、「小さな会社☆儲けのルール」に書いたとおり、主観ではなく顧客観=つまり、主催者側の都合ではなく、参加者側に立った運営方法でした。だから、会自体では何の利益もない。どころか、下手したら赤字。毎回の切手代や案内コピー・封筒代は勿論、作業運営人件費は目に見えない赤字・・・。これを当初はリーマンの身分で会社の封筒を使ったりしてました=会に来た会社から広告の受注ができるかも=が、途中で「コリャダメだ。主催者が営業目的でやったら見抜かれて参加者が来なくなる。俺は営業できない」と気づきました。また、当然、切手代も自前でせねばと少ない予算でやりくりしました。さらに、常に新しい参加者の新陳代謝がないとダメだと、初参加の人にもどんな会かわかるように「会報」というか、ニュースレターを第5回目当たりから発行しました。
そして極力、参加者の自己紹介や取材記事を載せ、ゲストだけでなく、参加者の素顔を皆に知らせようとしました。
さらに、常に「九州ベンチャー大学:昔の名称は<不況撃破懇談会>」の詳細チラシを持ち、これはという人には手渡しか後でFAXをしました。普段の広告営業では飛び込み新規開拓をしましたが、この会の運営ではそんな時間も余裕も金もない。強引な勧誘もしたくない。そこで、口コミ紹介&案内一枚で集客する手法を、常に研究しましたネ。
★運営が修行の場
ホントにもの凄く後でわかったんですが、この会の運営自体が私にとってもの凄い修行の場だったんです。会社でネット通販している「金をかけずに集客が2倍~19倍:成功事例50連発!」というビデオがあるんですが、これは会の運営や次回以降に話す広告業の経験から編み出したものをまとめたものですが、「小さな会社☆・・」でいう「新規の営業戦略」+「顧客戦略=リピート・固定客化ノウハウ」の実践編です。
最近、軽い感じのマーケティングや集客手法が喧伝されてますが、「そんなの、俺は11年前からやってるな」と自信を深めましたが、当時はとにかく必死でしたね。しかし、一番の必死は「親の借金をどうやって返済するか」と「俺自身の天職はなんなんだ?」「俺はこれからどうやって生きていけばいいのか?」・・・。
実は「九州ベンチャー大学」は、自分の天職を探すため。様々なゲストや参加者の生き様に習い、自分の突破口を見つけたい・・・。そういう意味では極めて自己中心的な志だったんです。
連載第二十七回目
★求人広告営業
アド通信社は当時、広告代理店としては年商40億程度あり、電通や博報堂なんかに比べると弱小ですが、地元ではまあまあの大手。でも元々はスポーツ新聞専門の広告でスタートし、新聞の求人広告や小枠の営業広告が主体でした。TVCMやイベントみたいな格好いいヤツは数少なく、中小零細企業・自営業を対象にしたドブ板案内広告が中心。以前、電通九州の人と名刺交換したときも、明らかにバカにされましたね。「うちは上場企業しかつき合えないんでね」だって!このクソが!と思いましたね(どうせ、こういうヤツは名刺で商売しているから、リストラになったら使えない)。でも、起業や文章書きには、アド通は良かったんです。そうとはっきりわかるのは、それから10年後でしたがね。
入社後に配属されたのは、大学生向けの就職ガイドブック「ダイヤモンド九州版」の求人広告取り営業。ただ、入ったのが’92年の8月で、当時は営業開始は秋から。かといって、中途で入ったばかりで遊んでいるわけには行きません。当時33歳で6社目の会社。もう後がない。再度の起業もチラッとは考えましたが、借金も抱えてとてもそんな余裕がない。まずは目の前のやるべき、やれるべきことをしようと、昔、リクルート社でやっていた中途採用の求人広告営業を始めました。
★アポ電話をかけまくる
慣れていたのはB-ingなどの雑誌営業ですが、アド通は新聞がメイン。仕方なく、地元西日本新聞の求人広告でも営業するかと、目の前にあった「ふくおか経済」という地元誌を見ながら「記事見ました。発展してますね。社長さんいます?採用のお手伝いでもできないかなと・・・」と、26歳まで3年間やっていた7年前を思い出し、見よう見まねでアポ電話をかけまくりました。実は密かに「入社初日の受注」を考えてはいたんです。
中途採用はなにかと白い目で見られがち。「やあ、よろしく!」と握手はしても、周りは果たしてコイツはどこまでやるんだ?=ライバルですからね。それに応える、見返すためにも、早く実績を作らねばと、それとなく気合いを入れてかけまくりました。
すると、10件目くらいで小財金網という防災用金網メーカーの社長にアポが!しかし、入社したばかりで新聞媒体は扱いが初めてだったので、同僚の丸山に同行してもらって先方へ。「西日本新聞には知り合いがいるんだがね・・・」と言いながら、なぜか小財社長は私と申込み契約(知人だからこそ、金銭取り引きや仕事をしにくいことがある)。もしかしたら、会社始まって以来の入社日受注?まあそれはいいとして、なかなか出来るなというジャブは打てたはずです(笑)。
★入社日受注に成功
さて、広告原稿ですが、今迄の経験だと、受注後は制作チームでコピー文章を作ってもらうのが常。ところが「うちは新聞なんかは営業マンが作るんだよ」と言われ、エー、ホントですか!!と声を上げたところ、上司の中村さんが「どれどれ、任せて」と、タバコサイズの求人原稿を埋めていく・・・。なるほどなーと思いながら、しかして入社一日目は目出度し目出度しでスタートしました。
その後、出社停止や死の事件が待っているとは思えない、1年半ぶりの穏やかなリーマン生活でしたね。それまでわずか1年半でしたが、東京での独立起業は悲惨なもの。やっぱ、リーマンは最高だと思いました・・・。
連載第二十五回目
★連帯保証1億円
「克己さん、大変なことになった。あんたの家が差し押さえになり、他人の連帯保証1億円をかぶった。既に競売開始決定になっている!」電話は福岡の平川さんといって、亡くなったオヤジの銀行時代の同僚でした。「はあ???」。私は何のことか一瞬わからず、ボケーとしてました。借金1億?家が差し押さえ?なんで????。
要は実家が、連帯保証で他人の借金をかぶったということ。田舎の福岡に一人いる母が他人の保証人になり、相手の人が借りていた借金が返せず、保証人になっていた母のところに街金から代位弁済請求が来たということです。その額が1億円!!!!
うそだろうと思いながら急遽帰り、土地の登記簿謄本を見ると、確かに事実でした。すぐに平川さんと弁護士や税理士にも行きましたが、そして母にも確認しましたが「全部事実」。母が納得?して実印を押し、自筆で連帯保証人に名前を書いていました。そして相手はなんと「地上げ屋のブローカー:佐賀県唐津の浦川清」。パチンコ店で知り合った母に、最初は5万円を借り、すぐに返済。次は10万円を借りてこれも返済。それだけでなく、「ある日、バラの花束を持って家にお礼の挨拶にきた。
「信頼できる人なのよ」(母)という、詐欺師がよく使う手で、気づいてみたら1億円の連帯保証。オトコが借りていた先はエビス信販に浪速商事という札付きの街金。あわてて警察にも行きましたが「民事不介入」でダメでした。
こんなことがあるのか!!!!!
★福岡へ帰るべきか否か
時は1992年春。東京でも何となくバブル崩壊という言葉が歩き出し、資産家の老人が殺されて土地家屋を取られたなんてバブルがらみの事件がありましたが、まさか自分の身に降りかかるなんて考えたこともない。でもこれは事実なんだ。
1ヶ月ほど悩みました。福岡へ帰るべきか否かと。俺はまだ東京で全然成功していない。このまま田舎には帰りたくない・・・。福岡では高校まで過ごしましたが、福岡へUターンなんて考えたことはありませんでした。人口130万都市だが、東京に比べれば田舎。なんか遅れているし、知り合いももういないし、ダサイし・・・。
しかし、母はもう正常な思考能力がなく、「あの人は悪い人じゃない。かならず返す人」とは言うが、こっち側で調べても、関西の怪しい新聞社系列の地上げブローカーの下っ端。かつ、実家の唐津和多田の先祖の土地も売り払い、子供や周囲にも迷惑をかけ、他の騙された人からも電話がかかってきました。「うちは500万だけど、あんたは1億ね。そりゃやられたね」なんてね。ああ、もう、こいつはダメだ。
こいつを追いつめても返済もできないなと覚悟を決め、福岡へ帰ることにしました。1992年6月のことです。
★33歳で福岡へUターン
当時つき合っていたが、事情があって結婚は出来ない東京の彼女と最後のデート。
たしかターミネーター2を新宿で観て涙の別れ。家財道具もほとんど処分し、33歳にして学生御用達:クロネコヤマトの一人引っ越しパックでテーブルとその他を送り、交通費節約のために乗っていたヤマハのオフロードバイクDT200を発進させ、東京都新宿区四谷の木造アパートを出ました。
東京時代も何もいいことはなかったが、今度は1億円の借金か。全く俺の人生はどうなっているのだ。大学を出てからヤマハ、リクルート、IBMリース・・・と、どの会社も3年持たずの挫折転職ばかり。そして脱サラ後も半年で廃業し、今度は実家が・・・。
先行きを暗示するかのごとく、旅立ちの日は豪雨。東京から甲州街道をバイクで走っていたんですが、コリャダメだとUターンし、結局はフェリーで東京湾を出ました。船中は雑魚寝の3等船室で、どこかのオジさん達とたわいのない会話。そして一夜明けると関門海峡が迫ってきました。ここを抜けると、まさに本州から九州に入ります。今でも鮮明に覚えていますが、その時の天気は曇りで、福岡方面の空はまさにドンヨリとした暗雲が垂れ込めていました。
関門大橋をくぐり抜けた時、「ついに帰ってきたな。これから闘いが始まるんだな」と、覚悟しましたね。勿論、福岡での職は何も決まっていません。家もどうなるのかわからない。はっきりしていたのは、理由はどうあれ、1億円の借金をかぶってしまったということ。自分の呪われた人生に悲観もしましたが、武蔵と小次郎が決闘した巌流島を過ぎる頃には、目の前の戦で興奮状態でもありました。
広告収入で運営費をまかなう方法
自サイトを客観的に評価する
まず、広告収入を得たいと思っているサイトを、客観的に評価する必要があります。なぜなら、運営者(管理者)本人が、広告収入を得たいと思っていても、広告主にとって「広告を出したい」と思わせるような魅力的なサイトでなければ意味がないからです。
広告主に、広告を依頼したいと思わせる魅力は何なのか?
1. アクセス数の多さなのか?
2. クリック率の高さなのか?
3. ターゲティングがしっかりできていることなのか?
4. ブランド力なのか?
5. ユーザ間の口コミ力なのか?
1.2.に関しては、アクセス解析ツールなどを使うことによって、客観的に自サイトを評価することができます。
3.に関しては、まずサイトのコンセプト・テーマがしっかりある上で、「どのようなユーザがサイトに訪れているのか?」を把握する必要があります。
SOHO’s Club に関しては、SOHOに興味がある人全般がサイトに訪れるユーザであり、とてもわかりやすくなっています。このように、ひとことで「どのようなユーザがサイトに訪れているのか?」を把握していると、広告主に対しても明確なアピールができます。
4.は、そのサイトに広告を出すことによって、広告主に良いイメージを与えることができる「ブランド力」です。ブランド力のあるサイトに広告が掲載されると、ユーザ側もその広告主に対しよいイメージを持ちます。WEBの世界ではイメージ・ブランド力というのは、一般の世界に比べて大きな影響力を持ちます。
5.の場合は、そのサイトがコミュニティサイト等であれば、ユーザ間での口コミの力を活用できるという意味です。コミュニティでなくても(ユーザ間での口コミがなくても)、運営者(管理者)のユーザに対する発言力・影響力が大きい場合にも当てはまります。
連載第二十四回目
★作家は夢のまた夢
まあ、こうして文章書きのマネごとはしたんですが、とても作家や文章だけで食っていくなんて夢のまた夢。ただ、多少の努力はしました。有名なコンサル2人の対談コーナーなんかをいくつか受け持ち、それをテープにとって起こして文章にしていたんですが、これが毎回、内容がない話ばかり!そのまま文章にしても良かったんですが、これじゃあなあと、自分でその分野の情報を図書館や本屋で調べ、半分以上を書き直し。自分の勉強でもありました。そして、その文章をチェックしてもらうんですが「うーん、栢野君は文章がうまいね!」だって。ただ、なぜこの人なんかで仕事が次々に来るんだろう?疑問に思い、先方のオフィスでじっと見ていると、その「先生」=ヘドが出る呼び方=は、営業・接客・サービス精神がある。つまり、雑誌社の担当やお客さんとのコミュニケーションというか、非常に相手を大事にする行動が多いんですね。原稿を取りに来た女の子にも「御苦労さん」とジュースやケーキを出す。編集長にも付け届けを出す。お礼のハガキを出す・・・etc。芸能界なんかもそうですね。酷い場合は「寝た女」を優先して番組に出すとか、「接待」がうまいプロダクションの歌手を優先して使うとか。
私の身近?な博多のある女性コンサルも、男性陣の前での服装は派手で、しかし、オジン連中は鼻の下を伸ばして「じゃあ、彼女に発注するか・・・」なんてね。まあ、以上は下品な例ですが、相当な実力者でない限り、同じレベルの実力なら、性格や人格や人当たりのイイ人を使います。
そういう意味では私は最低な作家?コンサル?講演家?ですね。おべんちゃらや接待やなんかが大嫌いですからね。前に仕事を貰った人でも、「腐った部分」を見つけたら、容赦なく叩きのめしたりします。だから、2チャンネルなんかでは、一時期は私の掲示板が5つも出来ていました。最近は時間がタイトであまり相手にしてませんがね。興味ある方は2ちゃんの「起業・ベンチャー」掲示板をご覧下さい(笑)。
★33歳出版社のバイト契約社員
こうやって、今となってみれば多少の文章修行をしていたことにはなりますが、前回も言ったように、俺は沢木耕太郎や椎名誠や神渡良平さんなんかにはとてもなれない。文章の仕事は始めたが、もう33だし、それも潰れそうなビジネス系出版社のバイト契約社員だし、今更間に合わない。ホントに俺は今後、どうすればいいんだと、ものすごい自己嫌悪に陥ってました。ただね、後になって起業家の人生を研究分析するようになってわかったんですが、まあ、最初からうまく行く人はほとんどいないんですね。大体が1~3年は食えない。カツカツ。それどころか、1年で約4割が廃業し、5年で約7割が廃業・倒産・破産。自宅事務所で借金もせず、人も雇わずにやれば、何とか「生きている」状態は確保できますがね。追い込まれたら、早朝や夜中や休日に、バイトでもしまくるんですね。実際、今から2年前にはわずか3ヶ月ですが、早朝の新聞配達をしていました。毎日朝4時起きで雨の日も風の日も休めない。あれは自分にとって相当な訓練・経験でしたね。月に4万3千円の小遣いにもなったし。ただ、やっているときは昼間は広告や「先生業」=すでに年間20回くらい講演・コンサルをしていました=が、実態は食えない自営業。やっているときは惨めでした。それでも、まあ、新聞配達なんて大したことないけど、「嫁さんと2人だが、株式会社の社長でここまでヤルやつはいないだろう。必ず何かをつかめる。目覚めるはずだ」と思っていましたが、実際は「俺は何をヤッテいるんだ?!情けない」という気持ちも半分。
★母に恋人
これが2年前の状況ですが、話は元に戻りますが、今から11年前の出版社テープ起こし時代も、2年前とまったく変わらない状況。お菓子の「カルビー」なんかに「新商品の件で取材したい」なんていうと「えっ!ありがとうございます!ぜひ、お願いします」なんて簡単にアポが取れ、何かの飲み会で「ビジネス社 記者 栢野克己」なんて名刺を出すと「カッコイイ!!」なんて、マスコミ大好きバカ女からは言われましたが、「へっ。リクルート社時代と同じく、俺がバイト社員だとわかるとバカにするくせに・・・」なんて思い、女性にも本気でアタックできない。
大都会東京にいるのに、夜になると「松屋」や寂れた定食屋にで一人夕食を取る悲しい独身オトコ。大体、そういうとこにはどうみても結婚できない中年オトコが沢山いるもので、新宿の街を歩いてホームレスを見ても、とても他人事とは思えない。暗い暗い、先が見えないトンネルの中だった1991年~’92年年明けの冬でした。
たまに博多の一人残っていた母(父は高校2年の時に脳血栓で突然死)に電話すると「克己も社長で頑張ってるんだね。ママも彼氏が出来てね。天神の土地がこの前は坪2500万円にもなったよ」なんて、気楽な元銀行役員の未亡人気取り。母に恋人か。まあ、母も41歳で未亡人になったし、そういう話もあっていいかと思っていた’92年の春、我が耳を疑う、信じられない一本の電話がかかってきたのです。
連載第二十三回目
★ビジネス社でバイト
こうして最初の脱サラは半年で廃業。ビジネス社の「テープ起こし」バイトを月20万円でやることになります。ビジネス社は中堅のビジネス系出版社。実は後で知ったんですが、ここは昭和50年前後に、今回の私の本「小さな会社☆儲けのルール」の基となった田岡信夫著:ランチェスター経営戦略の本を約200万部も出したんです。しかし、その後は時代の流れ等か怠慢か、経営危機に陥り、コンサル会社:船井総研の傘下に入ったところでした。
当時、弱小週刊誌にエッセイは書いてましたが、まさか文章で食っていけるなんて思っても見ません。単なるバイトだと思ってましたね。出社してすぐに任されたのがテープ起こし。講演テープをウオークマンで聴きながら、それを原稿に直す地味な仕事ですね。
1本目は有名なコンサルタントの船井幸雄さん、2本目は副社長の泉田豊彦さん、その他、様々なコンサルの話を文章にしていきました。コンサルの話なんてまったくわかりませんでしたが、それが今、自分が零細起業コンサルを名乗っているんですから、人生は何が幸いするかわかりません。
★何も知らない素人
まあ、とにかく私が一番何も知らない素人で、同時に「月刊流通ビジネス」=その後の月刊フナイ=船井総研の月刊誌の取材・執筆・校正も見よう見まねで挑戦。社長の花田さん始め、村上直子さん、沖浦さんといった若手編集者にいろいろ教えて貰いました。
表向きは「出版社勤務」は、なんとなく格好いいなとは思いましたが、所詮はバイト社員で俺なんかはプロにはなれない。編集者は勿論、作家・著者なんて夢物語。ただ、当時脚光を浴びていた椎名誠さんが「ストアーズ」という百貨店業界紙を経て作家デビューした話を聞き、俺も今はビジネス系月刊誌の記者?やってるからもしかしたらと、椎名さんの自叙伝的「銀座のカラス」などを読んで、淡い夢想はしました。
でも、まあ、椎名さんはストアーズ社時代から辣腕編集長で、その後の「本の雑誌」創刊なんかの物語読んでも、とても俺にはムリだと思ってましたね。余談ですが、最初の起業した事務所は新宿御苑のライオンズマンションで、そのすぐそばに「本の雑誌」事務所があって、一度飛び込み営業に行ったことがあります。すぐに追い返されましたがね。
★2足の草鞋
そういうわけで、作家で食うなんて夢のまた夢でしたが、日々の文章書きで「本多勝一」や「沢木耕太郎」「立花隆」「自動車絶望工場」のルポライター鎌田さんの「文章入門」みたいなものは何冊か読みました。特に憧れたのは沢木耕太郎さんですね。仕事はビジネス系月刊誌のテープ起こし・取材執筆が中心で、これはいわばルポライター。事実を淡々と取材し、少しだけ自分の見方も加える。沢木さんはビジネス以外のルポが多かったですが、沢木さんの文章は、対象が敗者でも何か救いがある。私自身が敗者の人生の連続でしたから、そういう文章を自分も書きたいと思いました。
こうして前からの知り合いには「(株)アントロポスデータジャパン代表取締役」取材先では「ビジネス社の栢野」と、2足の草鞋を履いてましたが、前者はまったくの休業状態。自宅事務所も留守電で、電話をもらってもいつも不在です。
徐々に旧知の知人からも「どうも栢野はうまくいってないらしい」と連絡はなくなり、私も非常に暗い毎日を過ごしていました。当時33歳。今更出版社の正社員にもなれそうにないし、かといって何をしたらいいのかもわからない。
そんなとき、出版社の倉庫で何気なく手に取ったのが、現在の師匠であるランチェスター経営(株)竹田陽一先生の「ランチェスター弱者必勝の戦略」という本。ランチェスター戦略というのは、小が大に勝つ経営戦略なんですが、当時はそんなものには全く興味ない。ただ、どんな人が書いてるんだと本の奥付を見ると、福岡県出身とあるじゃないですか。今も昔も、特にビジネス書は大体が出版も著者も東京発でしたから、「へー、珍しいな」と思いました。ただ、中身も読まずに置き直しましたがね。まさか、それから10年後、その本の続編にあたる「小さな会社・儲けのルール」を出すなんて思っても見ませんでした。
※お陰様で「小さな会社・儲けのルール」はこの6/18で第8刷で5万部を突破。感謝です。
連載第二十二回目
★起業後半年で資金がなくなる
こうして起業後半年で金がなくなるんですが、まあ、考えてみたら当たり前ですね。なにせ「無料職業相談業」(=相談に乗ったふりをして、裏でその人を企業に紹介し、人材紹介手数料を貰う=民間人材銀行をモグリで実施=後ろめたくなってダメだった)ですから。実はこの「無料職業相談業」には大先輩がいます。新宿区四谷のボロアパートで約30年前から、確か今も「現代職業研究所」をやっている本多信一さんがその人。今までに「内気」や「転職」をキーワードに数十冊の本を書いているから、ご存じの人も多いでしょう。本多さんは時事通信社を30歳前後で「仕事不適応」「人嫌い」で辞め、しかし、何をヤッテ生きていったらいいかわからず、ふと考えて「自分と同じような、職業に悩む人の相談相手になろう」と「無料職業相談業」を開設。しかし、当初数年間はほとんど相談者も来社せず、それまで蓄えた数百万円を切り崩しながら、かつ、超極貧生活を維持しながら、「いつかは本を出したい」と、誰も見ない原稿の練習をせっせとやっていました。その後、流通業界紙などに売り込んで連載の仕事をゲット。かつ、中小企業診断士の資格(個人的には食えない資格だと思います)を取り、ぼちぼちと研修やセミナーの仕事で食いつなぎ、40歳を越えてから「週に3日が無料相談日。あとが稼ぐ仕事」のパターンとなり、その頃には本も何冊か出して「作家先生」の仲間入りをしていました。まあ、しかし、印税なんて大したことない=今は1万部売れればヒット=私の場合は1冊84円ですから1万部でも84万円=ですから、私が相談に行った’91年当時も貧乏な様子でした。部屋は和室の質素なもので、あちこちに原稿が散乱。後日、本多さんが自著で「いつ原稿になるかもわからなかったが、出すものと決めて毎日数十枚を書いた。そのほとんどは本にはならなかったが、のちの出版依頼があったときにはスムースに書けた。あれは無駄ではなかった」と聞きました。
これは私で言えば、本を出すなんて意識は40歳まで全くなかったですが、18歳から書いていた日記が練習になっていたんですね。
★ヤル気が全く出ない
とまあ、とにもかくにも、私の無料職業相談業は意欲を失って半年でおしまい。
’91年の2月に始め、夏を過ぎた頃には「コリャダメだ」と新宿御苑のワンルーム15万円マンション事務所兼自宅を引き払い、四谷の6畳一間・木造風呂なしアパートに転居しました。
横は中年女性と若い男性(息子じゃない)、真下はパキスタン人で隣はヤーサンぽいあばら屋。食事は貰った百貨店の券を切り売りし、それがなくなると試食コーナー巡り。銭湯も勿体ないので、2回に1回はキッチンで洗い、交通手段も金のかかる地下鉄・JRは辞めて、車も売ってバイク移動に変更。しかし、最初のヤマハ時代のノイローゼ退社で癖になったのか、またもウツ気味でヤル気が全く出ない。お金は減る一方なのに、仕事をしないんですね。何をやったらいいのか、俺はどうしたらいいのか。毎日、図書館に行って新聞を読み、歩いて新宿へ出て雑踏の中に身を置いて、都会の孤独に浸る日々。そして帰ると外見も中も絶望的なアパートで、残りの預金通帳をじっと見る・・・。暗かったですね。
★テープ起こしバイト
ちょうどその頃、一本の電話が鳴りました。相手はコンサル会社「船井総研」東京本部の花田部長。「お前、脱サラしたらしいが、どうせ食えてないだろう。俺は今度、船井が買収したビジネス社という出版社の社長になる。テープ起こしでも手伝わんか?」
実は数ヶ月前にまだ元気な頃、都内を飛び込み営業していて会ったのが花田さん。聞けば同じ福岡出身で、覚えてないですが、どうも(1)私が独立の挨拶ハガキを出していた(2)私が名もない「週刊キウイ」という雑誌にエッセイを書いていた・・・を見て、まあ、バイトなら使えるだろうと思ったらしいです。
「キウイ」はもう廃刊されてますが、毎週全国の新聞から面白い記事だけを抜粋して集め、他の情報ページと一緒に発行していたもの。読者を人脈ネットワークして各地で異業種交流会を開くという点がユニークでしたが、机上ですが私も同じ事を考えていたんですね。
だから「キウイ」を知った時はショックで、しかしこれはもうかなわんと読者に。たまたま書いた「読者投稿」を当時の池田編集長が見て「あんた何か書く?」といわれて、俺は何もないが転職歴だけは豊富だ。ならばと自分がなぜ退職したかの「ドキュメント退職」というエッセイを1年ほど書いてました。
今思えば、あれが私の作家デビューだったんです。よく言いますよね。売れるか否かはおいといて、誰でも1冊の本は書ける。それは自分の人生を書いた「自叙伝」だと。私も起業したばかりで何も実績ない。でも、恥ずかしいが自分の過去は書ける。
思い切って、挫折した就職、転職の失敗を、かなりあからさまに書いたんです。何度もノイローゼになったこと、自殺未遂したこと、婚約破棄してボロボロになったこと・・・etc。
これは今思うんですが、「何もない弱者必勝の文章戦略」なんですね。いい事も悪いことも恥ずかしいことも全部さらけ出す。まあ、サラリーマンにはなかなか難しいことですが、匿名や起業している人には使える。いつの時代も、「さらけ出した本音」は、たとえその人が無名であろうと、同じように悩める人の心を打つのだと思います。私も書いている「楽天日記」が全国で大ブームになっているのも、そういうことじゃないかな?
てまあ、そういうわけで、私は起業半年後には月20万円の「出版社テープ起こしバイト」に成り下がり。しかし、ここで私は今回の「小さな会社☆儲けのルール」を書くキッカケとなった本や人に会うことになります。ただ、本が書けたのは、さらにその10年後の去年ですがね。それまで「神の啓示」もなく、さらに悲惨な人生が待っていました。
連載第二十一回目
★社長になるしかない
1990年前後、独立起業系では「創業開発研究所」の小久保さん(現在、埼玉県在住。岐阜大学講師も)、企業の新規事業分野では「オゥトゥ・ジャパン」の日野さん(現在は不登校のeラーニング:アットマークラーニング代表)がコンサルでは有名でした。そして、「こんなに転職を繰り返してはもう後がない。同級生に勝つには<社長>になるしかない」と考えるようになったんですが、この2人に憧れていましたね。こんな人になりたい。しかし、とてもなれないなとあきらめた私は、小久保さんが主催した「独立起業塾」に参加しました。実はこの時点では、全く何をやったらいいかはわかりませんでした。
ヤマハ発動機、リクルート人材センター、リース、チラシ宅配・・。どの仕事も中途半端で、大した実績は上げていない。それどころか、ヤマハとリース会社はノイローゼ退社で、リクルートは正社員落第。チラシ宅配も遊びのような営業所運営。一体全体、自分には何ができるのか?異業種交流会に出て、数百人の方々と会いながら、何か自分でもできることは?好きなことは?まだ世にない、画期的なニュービジネスはないか????考えても考えてもわからない。
★天職を見つけるには転職が必要
今も毎年、様々な場所で「独立起業セミナー」が開催され、私も講師として呼ばれることが多いですが、まあ、ざっと半分以上の人は昔の私と同じく、何をやったらいいのかわからないようですね。これは別に起業に限らず、就職や転職でも、自分が何をやったいいかわからない若者がものすごく多い。リストラ組もそうですね。
そういう状況を識者は「最近の若者は自分がやりたいこともわからない」と、型どおりの批判をしますが、「自分の天職がわからないのは当たり前」だと思うんですね。特に、社会に出てもいない学生が、就職雑誌やネットだけでわかるはずがない。
一つには、私も前にやっていた就職情報誌=中身は全部広告=真実は書いていない=から、さらに、転職情報誌も広告=エエカッコシイでうそばっか=ですが、広告だから真実=現実の厳しさは書きにくいし、本当に合うかどうかは働いてみないとわからない。
だから、私が思うには、「天職」を見つけるには、普通は何回か転職してみないとわからないと思うんですね。まあ、これは7回会社を変わって、しかも起業して8年目でやっとわかりましたがね。それも去年、44歳の時です。私の場合は。こんなもんだと思うんです。もしかしたら、44歳でも早いほうかも知れない。
「天職探し=自分探し」ですね。ある意味では、これは一生賭けて探すものかも。
ということもわからなかった「俺は天職もわからない、どうしようもないヤツだと思っていた」32歳の時、小久保さんの塾に参加したんですが、まずやったことは「自分の過去を振り返る=自分の履歴書を整理する」ことでした。そして、自分ができることで食えることはなにか。好きなことは何か。小久保さんと話し合いながら、あーでもないコーデモナイと反芻しながら、2日に渡って約20時間くらい考えましたね。
★会社を設立
そして、「無理矢理」出てきたのが「無料:転職相談業」。つまり、リクルートにいて多少は裏も知っていた自分でさえ、何度も就職転職に失敗した。一般の人はもっと悩んでいるのではないか?職安に行っても頼りない公務員。民間人材銀行は、相談には多少はのってくれるが、所詮は「売れる人材」しか相手にしないし、紹介するのも「事前にビジネス契約した会社=紹介者が入社したら年収の約3割が報酬」だけ。どこも、悩める転職希望者の立場にたっていない。ならば、俺がやってみるか。ボランティアに終わるかも知れないが、何となく、悩める人の手助けになりたい。リクルート時代は「表の情報=広告」だけを取材することを覚えたが、リース会社時代の与信調査で帝国データバンクや東京商工リサーチの調査レポートを見て、企業を裏から見ること=マイナス情報=真実も把握する大切さ=を学びました。
※実はこれが後の文章を書く際に、ものすごく役立ちましたね。
「宣伝会議コピーライター養成講座」みたいな、電通や博報堂&お気楽講師&圧倒的なCM量があっての、うわべのチャラチャラしたコピー文章だけでは、求人広告も販売促進広告も、人は動かせない。それに、相手が中小零細企業の場合、10万円の広告を出したら、必ず10万円以上の粗利を得なければならない。大手企業のように、かっこいいモデルとイメージでそのうちに儲かるなんて余裕はないんです。ここから「カヤノ式:金をかけずに集客が2倍から19倍:弱者必勝の広告PR集客戦略」が後に生まれるんです(詳細を解説したビデオはHPで販売中)。
しかしまあ、この「嘘をつかない」ビジネスのやり方は、すぐには儲けを生みません。私のモットーである「本気!正直!感謝しかない!」は、多少の下積み時代が必要なんですね。でも、それを貫けば、ビジネスだけでなく、自分の人間力をも磨くことになる。
こうして、’91年2月22日に東京の行政書士:国吉栄長さんに頼んで(株)アントロポスデータ・ジャパンを資本金150万円で設立。まあ、法人にする必要もなかったんですが、なんとなくカッコつけたんですね。社名は当時、日経が出していた人間情報誌「日経アントロポス=ギリシャ語で人類」から拝借し、かつ、前述の日野さんの真似をして「ジャパン」をつけました。
肝心の収入面ですが、あくまでも転職希望者側に立って相談にのり、その人に会った会社を選択。紹介をして「人事コンサルティング料」を企業からもらえればラッキー、もらえなければそれでも構わない。それと、同時に昔取った杵柄の求人広告代理業でもやればいけるさ、なんとかなると、顧客は全くのゼロで始めました。当時32歳。まさに若気の至りですね。
結果は半年後、文字通り「食えなくなり」、私は毎日、百貨店の地下食品売場:試食コーナーを徘徊することになります。
連載第二十回目
★エンドユーザーとのふれあい
こうして「毎日がチラシ運搬と配布」の日々が続きましたが、楽しいこともありました。それまでの会社では主にオフィス街の会社が対象の仕事で、会うのは社長やネクタイの男性担当者ばかり。ところが、ここでは一般の中小小売店主や、共に仕事をする主婦の方々200人。つまり、生まれて初めて消費者の現場に近い人達に会い、「こういうエンドユーザーとのふれあいが何かの役に立つ」と自分に言い聞かせました。また、営業所で唯一独身男性かつ年下の私は、ある意味では主婦らのおもちゃみたいな感じで、殺伐とした仕事の中で、彼女たちとの会話は新鮮に感じたものです。
また、主婦リーダーの方々からは、大学まで出たのに単純な肉体労働する私を気遣ってか、「栢野さんは何かをヤル人よ。ガンバって」とよく声をかけてくれました。
しかしまあ、実態は何の変哲もないチラシ配り。「これは現場マーケティングの勉強になるんだ」という気持ちと、「こんなことをやっていてどうするんだ」という気持ちが日々重なり合っていましたね。そして当初、相模原勤務は3ヶ月の予定が「次の代理店が決まるまで」という本社の未定に流されるまま、気づけば1年が立とうとしていました。
★住めば都
住めば都とはよく言ったモンです。あんなに嫌った荒野の相模原も、南へ行けば相模川の自然は素晴らしく、休日は河原で本を読んで、今後の自分の人生を模索していました。
そんなとき、同じ主婦の組織で実業をしっかりやっている会社を知りました。一つは「ぱど」。今や発行部数1500万部?と世界一のフリーペーパーになり、昨年は株式上場も果たしましたね。もう1社が、主婦の声やアンケートを商品開発などに活かしていた「ドゥハウス」。実は「できれば転職できないか」と考えて、「ぱど」の倉橋社長、「ドゥハウス」の小野社長・稲垣専務には会いに行きました。双方とも創業期でしたが、何やら使命のようなものをはっきりと持ち、スゴイ憧れを感じたものです。
ただ、両社とも平均年齢が20代で、既に30歳を越えていた私は「もし転職できても、また社内では出世できないだろう」と諦めました。
そして「俺は大企業から中堅、ベンチャー、中小企業まで、4社全ての就職に失敗した。ホントに恥ずかしい。こうなったら<同期や友人知人にカッコつけるには>、次は社長になるしかないと、独立起業を考えるようになりました。
しかし、何をどうやっていいのか???。やりたいことも???。
★起業意識の目覚め
そこで実行したのが、東京で行われていた各種交流会やセミナーへの参加です。ウオータークラブ、今や有名な作家である中島孝さんがやっていた「キーマンネットワーク」、創業開発研究所の小久保社長がやっていた「自分起こし・会社興しの会」など、ほぼ毎週、小田急線に乗って上京?しましたね。マルチ商法や自己啓発の強引勧誘も受けましたが、刺激的な人達にも数多く会い、徐々に「起業意識」が目覚めてきました。1989年~1990年の頃です。
今振り返ると、まさにバブル絶頂期の最後だったんですね。貧乏放浪リーマンだった私には、全く恩恵はありませんでしたが、驚くべき事は金がない私でも、マルコーの投資用マンションを買ってみるかと考えたこと。その1年後にはバブルが崩壊し始め、マルコーも倒産するんですが、借金しても土地や株を買って当たり前の時代。
狂ってましたね。
しかし、投資する勇気もなく、自分の起業の種を探してあらゆる起業雑誌に目を通し、様々な人に会いましたが、考えれば考えるほど自分の天職が分からない。そんなときに、師匠と慕っていた小久保先生が2日間の「脱サラセミナー」をヤルと知り、たしか2万円くらいで当時の私にはきつかったですが、思い切って参加。
参加者は私ともう一人の2名でしたが、改めて自分の人生を振り返ることとなりました。
連載第十八回目
★失敗した人も東京へ行く
こうして29歳で3社目の会社も挫折退社しましたが、まさか博多に帰るわけにはいかない。また、元婚約者も私を見放してはいませんでしたが、悪夢の大阪は離れたい。1ヶ月ほど考え抜き、というか、逃げたい気持ちで東京へ再び行くことを決めました。大体、こういうときは東京ですね。田舎は目立つが、東京は人数が多い分、逆に目立たないし、孤独を楽しめる。だから、成功した人は勿論、失敗した人も東京に行くんですね。
彼女を大阪に残したまま、しかし、まさに逃げるように東京へ行った私は、弟が住んでいた清瀬にアパートを借りました。すぐに次の仕事を見つけたかったんですが、さすがに精神的ショックが大きく、数ヶ月は毎日、川や海へ行ってボーとしながら、ユーミンやオフコースやサザンの歌を聴き、様々な人生本を読みました。月に数回は湘南や伊豆、三浦半島まで車を飛ばし、ずっと海を眺めながら力が湧いてくるのを祈りました。
★話をして気づく
しかし、「プラス発想」、「人生に無駄はない」的なものを幾ら読んでも即効性はない。幸い、東京には以前の知人や高校時代の友人もいて、グチを聞いてもらえるだけでも有り難かったですね。特に親友の伊藤には世話になった。ちょうどアイツもプータローで、2人で一緒に中野サンプラザへよく泳ぎに行ってましたね。こういうときの為にも、友人知人の人脈は大切だと強く思います。「大概は自分の問題」なので、自分で考えて決断せねばならないですが、そしてアドバイスがもらえなくても、話を聞いてもらえるうちに自分で気づくことが多い。コーチングの役割はそんなもんだと思うんです。「親身になって聞いてあげる能力」ですね。
忘れてましたが、上京時、前いたリクルート人材センターに、大阪での辞め方を隠して再び正社員入社を打診しましたが、やはりダメでしたね。そして、徐々に落ち着いてから転職活動を開始。以前も受けた日経ビジネスを出している日経BP社の営業、センサーのキーエンス、帝国データバンク、ダイヤモンドビッグ社などはことごとく全敗。この時点でも、「書くことを仕事にする」なんて考えは1%もありませんでしたね。俺は何もない。できるとしたら、リクルート時代のような対法人向け新規開拓営業だと。
★中小ベンチャーしかない!!
そんな中、リクルートの知人の情報やBingなどで知った「ミッド」というベンチャー企業に目を付けました。今では当たり前にありますが、チラシやDMを折り込みや郵送よりも安く宅配するという事業を、日本で初めて全国的FCで始めた会社です。各地の老舗企業をFC加盟店にして、地元の主婦を数百人パート契約。約500世帯ごとに配置して配るという形。ちょうど社長がPHPから本も出し、広告業界の末端ではちょっとは話題でした。私も大企業、成長企業、中堅企業と就職転職に失敗し、もう後がない。逆転するには中小ベンチャーしかないなと思い、履歴書を送付。幸か不幸か、面接1回であっさりと合格しました。失業して約6ヶ月。ホッとしましたね~。
その数ヶ月前、大阪の彼女からは別れを告げられ(実は私よりもイイ男性が現れたんです。良かったです)、30歳にして4社目の就職。もう、失敗は許されません(と思いましたが、実際は年齢は関係ない)。初出社の前日は気合いを思いっ切り入れました。ところが緊張したのか朝方まで眠れず、気が付いたら時計は午前11時!急いで昼過ぎに顔を出しましたが、皆からは思いっきり白い目で見られました。悪い予感がしましたが、1ヶ月後、まさにそれは現実のものとなったのです。