連載第五十六回目

★ウツに苦しみながらの講演
こうして2000年は講演を始めたんですが、ウツも治らずに苦しい毎日。しかし、食わねばならぬと、求人広告や営業広告の仕事は継続。既存客に加え、新規顧客の開拓も、ハローワークの求人票・新聞広告・新会社情報をリストアップ→電話・飛び込み・FAXDMでアタック。毎日、落ち込んだり、立ち直ったりの繰り返しで、その合間には講演の仕事を取るために、商工会議所や銀行へ挨拶回り。中小企業向けで予算がない場合、ぜひ、私を講師で使ってみて下さいとお願いに廻りました。
その結果、2000年は約10回の講演講師をやりました。でも実際は、講演が入るとその1週間前からメシが喉を通らなくなり、毎回、話す内容を詳しくレジメに書きましたが、いざ話す段になると緊張しまくり、もの凄く疲れました。これは大変な仕事だなと。
特に2000年の9月~11月の5回やったハローワークからの委託研修=失業者向けに脱サラ講座をやったんですが、こっちも素人で相手もヤル気ない失業者=脱サラなんかする気もなく、受講すれば失業保険の期間が伸びる、早く終われよ・・みたいな雰囲気で、参加者も毎回減る一方。これは精神の限界で、途中でこちらから中止を申し出ましたね。あの時はホント、叩きのめされました。俺はダメだと。
11月後半からは、新興宗教の善隣教へ行ったり、熊本の寺の内観研修に参加=朝から夜まで、両親に世話になったことを思い出し、感謝の念を思い起こしたり、その後にお祓い(700万の壺でなく、7千円で済んで助かった)をしてもらったり、様々な人生本を読んだりしました。
★先生は朝に新聞配達
しかし、2001年になっても状況は変わらず、講演の仕事(=過去の広告成功事例をまとめたもの)は月に1回くらいで入っては来ましたが、講演料も1万~3万でとても食えるはずもなく、講演会場では「先生」なんて云われたんですが、昼間はリストを基に広告取りの飛び込み営業&断られの日々。実質年収も200~300万で金もない。
やる気も起きない。2001年3月からは、朝4時に起きて新聞配達を始めました。その直前、2人の社長から「若い時分、苦しいときは新聞配達をやった」と聞き、当時42歳の株式会社社長(と言っても妻と2人)で昼間は「先生」でしたが、ナンとか自分を変えたい!
かつ、もう普通の広告業ではダメだ。何か他と違うことをしなければと、「デジはん」という顔写真ハンコのFC加盟店へ、全財産100万円を払って加入。1個1700円~2500円で粗利700円程度のハンコを、企業や商店へ飛び込み営業して売り歩きました。多い時は1日500社ほど廻りましたね。チラシを持って受付に飛び込み、「こんにちは!ホラっどうです!ポンッ!」と出てきたOLの目の前で顔写真ハンコを押し、「じゃあ、これを社内で回覧下さい!」と・・。まあ、落ちぶれた行商みたいなものです。
しかし、これも、毎月の本部へのロイヤルティを稼ぐに精一杯。結局は半年たって粗利100万円で加盟金とチャラ。大半のFCは本部だけが儲かるようになってるもんで、加盟店への指導やノウハウ提供はないに等しい。どうしたものかと、2001年の年末を迎えましたが、ここで人生を変える一大決心をしたのです。

連載第五十五回目

★ウツになる
こうしてウツになり、2度目の本の執筆も挫折中断。ヤル気もなく、毎日、夢遊病者のように公園や図書館に行って人生系の本を読んだり、物思いに耽ったり・・。
たまに今までのお客から仕事が入ると、いやいや身を引きずるようにして行き、愛想笑いでなんとか話し、こういうときは広告文章を考えるのも苦痛で、端から見たら何も変わらないみたいですが、精神的にはもの凄く苦しかったですね。
水中で息をガマンしているような感じ。そしてまた、動かねばと、様々な新興宗教の悩みを解決する会?に行ったり、内観の寺研修に参加したり、わけのわからない呪文を唱えたり、またも心療内科へ行って薬を飲んだりしましたが、ほぼ、(私の場合)何の効果もありませんでした(ただ、今、ウツが流行ってますが、人によっては薬で治ります。その後、元気になり、ウツだと告白したら、様々な知人が俺もウツだと相談に来られました。まあ、様々なウツの症状があります。どうしようもない人は、専門家を訪ねることを薦めます)。
★苦しみともがき
そんな2000年4月6日、師匠であるコンサルタントのランチェスター経営(株)竹田先生http://www.hf.rim.or.jp/~kaya/93takeda.htmlから、あんたも講演をしてみなさいと言われ、半ばヤケクソになっていたのもあり、過去の広告のお客での成功事例をまとめ、しゃべりまくりました。それまで、福岡大学で学生の前で体験談を話したことはあったんですが、公の大人の場では初めて。最初は緊張しましたが、話すうちにとまらなくなり、1時間半の予定を遥かに越えて2時間。これが思いのほか好評で、あとでビデオを見て、自分でもなかなかなものだと思いました。誰でも、自分の経験なら話せるんですね。
興奮して、これでウツも吹っ飛んだ!と思ったんですが、数日後にはまた落ち込み、またも図書館なんかに籠もり、飯田史彦の「生きがいの創造」なんて本をむさぼり読んだり、様々な勉強会に出たりしました。その頃の手帳日記を見ると面白いですね。毎日、「復活の兆し。大丈夫だ」「陽転思考!」「常にOOで良かった!と考える」「感謝!」「人生は今の連続。今を一所懸命!」なーんて書いてるんですね。まあ、こんな事を書いたり唱えたりしても、そうは簡単に奇跡が起きて大復活!はないんですが、この頃の苦しみともがきは、今の私にとってものすごい財産になっています。

連載第五十四回目

★離婚届を押し付ける
こうして’99年にブチあげた新生「九州ベンチャー大学」が当たり、マスコミ取材も相当受けて有頂天に。年収は相変わらず300万円台でしたが、毎日、ヤリガイを感じていましたね。
しかし、’99年の秋に家庭を顧みず、調子に乗りすぎ口論した翌日、突然、妻がガキを連れて家出。私も怒り狂い、市役所へ行って印を押した離婚届を妻に押しつけましたが、それを見た妻は、泣きながら目の前で破り捨ててくれました。ホッとしましたネ(爆)。助かった。しかし、ああ離婚というものは、こうして悪いと思いながらも、お互い詫びることが出来ず、破局を迎えるんだなあと思いましたね。今も妻には感謝してます。
その後、般若心経の説法で有名な松原泰道さんのセミナーへ参加したり、仏壇「はせがわ」の長谷川社長からお叱りを受けたり、調子に乗った自分を反省しました。
★2000年5月には出版する!
そして’99年末、来年の夢や目標設定をする時期になり、師匠であるランチェスター経営(株)竹田陽一先生や中小企業家同友会、成功哲学SMIの勉強会などで「2000年5月には本を出す」という目標を立て、再び、本の原稿書きにチャレンジしました。これは前年からチャレンジしたんですが、「九州ベンチャー大学」が当たってとん挫。よし、こんどこそと思っていたんです。12月中旬から事務所に籠もって一切の仕事を中止。年末年始も休まず、今まで会った起業家の人生をまとめ始めました(これが今の「逆転バカ社長:天職発見の人生マニュアル」になるんですが・・)。
しかし、あれは忘れもしない2000年の2月初旬、いつものように事務所に籠もっていると、突然、何かが襲ってきたような気分になり、ああ、キタキタ・・・。いわゆる「ウツ」になったんです。直前に読んだ五木寛之の「大河の一滴」みたいな、マイナス発想でもいいじゃないかの本の影響か、’99年に走りすぎた反動か、般若心経や人生系を勉強しすぎたのか、人に会わずに籠もったのがまずかったのか、文章を書けずに悩み苦しんで精神が耐えられなかったのか、全くヤル気が出なくなりました。まあ、「ウツ(単なるスランプ?)」自体は、いわば最初の就職先ヤマハ発動機を9ヶ月でノイローゼ退社して依頼、その後の転職失敗や経営不振時に何度か経験していましたが、その時はまた違ったものでした。虚脱感と無目標にさいなまれ、本を書くことは諦め、毎日公園や図書館で「俺の人生は??」とさまよい歩くようになりました。

連載第五十三回目

★独立起業大学
そして’99年の2月、それまで続けていたビジネスセミナー交流会「九州ベンチャー大学」の、本格的な「独立起業大学」をやってみようと思い立ち、趣旨を書いて約200人の社長へFAX。100人の発起人が集まり、その4月から開催したのがhttp://www.hf.rim.or.jp/~kaya/bideo.htmlで、毎回、第1部は起業で成功した現役起業家の実録講演、第2部は私の師匠であるランチェスター経営(株)竹田陽一先生の成功戦略のセットで、通常の交流会とは別に1年半やりました。
これを始める前に、概要をワープロで打ったA4一枚のニュースリリースをマスコミ各社に流したところ、TV・新聞・雑誌・ラジオから取材が殺到。「現役起業家ら100人が発起人の実戦起業大学!」として大きく取り上げられ、集客も大成功(弱者必勝のマスコミ戦略)。相変わらず、本業の稼ぎは微々たるモノでしたが、大きなヤリガイを感じましたね。
★実戦起業大学
当時は本気で「実戦起業大学」を作ろうと思ったものです(今も夢として諦めていません)。世の中には通常の大学はあるが、しかも経営学部や商学部・MBAも在りますが、中身はほとんど役に立たないか、大企業の事例ばかりで、中小企業・ベンチャー・起業にはほど遠いものばかり。まあ、実戦を知らない教授連中には無理なことでしょう。だから、「独立起業学部」「新規開拓営業学科」「ルートセールス学科」「人脈構築学科」「広告宣伝学科」「顧客管理学科」なーんてものを人脈を使って、現役起業家・営業マン・企画マンなんかを講師に選定したら、できないことはないのでは・・・と考えていました。
先日、福岡県の南地区の中学教頭先生の研修会に講師で呼ばれたんですが、もはや偏差値だけの有名大学を目指す教育は古い。自営・起業を視野に入れた学校教育をするべきだ!!!有名大学卒は大企業や官庁へ行き、その結果、組織の歯車だけの人材になり、いざ、起業しても失敗する。起業成功者はその逆で、今も昔も高卒や3流大学→中小企業へ就職・転職→起業というパターンが成功への道。
これは私や竹田先生が調べた結果で、大企業の管理職は有名大学卒が多いが、独立自営の世界では、むしろ低学歴の人が有利なんです。田舎の学校は中央都市部の学校の真似をするのでなく、差別化して「弱者必勝の学校教育」を目指してもいいでは??と吠えました。今までの机上の空論の真面目な講師に比べ、非常に面白い!と、その後の懇親会では握手責めに会いました・・。
個人的な意見ですが、今後は学校に、民間経験者がドンドン入るべきですね。「先生」型は世間を知らない。「九州ベンチャー大学」という社会人学校?を12年130回やってきた感想です。

連載第五十二回目

★スゴイ人物との出会い
こうしてウツとスランプから脱した’98年の11月、スゴイ人物との出会いがありました。ある日、以前からつき合っていた博多の居酒屋チェーン「ぶあいそ」の溝上社長が、ヤクザみたいな若者を連れてきました。聞くと、以前は三和銀行にいて、「ぶあいそ」を立て直したと。その後、住宅リフォーム会社にいたが、今回独立をする。しかし、名刺やパンフを創ろうとしたが、新会社でどこの印刷・広告会社も与信が通らなくて受けてくれない。なんとか栢野のインタークロスでできないかと。ざっと約500万円の仕事ですが、回収できないと大損害になる。成功するかどうかもわからない。ここは人物を見極めようと、約4時間ほど話や飲み会でヒヤリング。今まで多くの起業家を「ベンチャー大学」で見てきた勘で、これはイケル!と仕事を受けることを決意。かつ、将来は上場も目指すと云うことで、まずは「ベンチャー大学」のゲスト講演をさせ、その後にメンバーに出資希望者募集を告知。私の他、ランチェスター経営の竹田先生、明太子日本一「ふくや」川原社長、ブティックオーナー、サラリーマンなどから、一気に700万円が集まりました。
★リフォーム業界
今から6年前の話ですが、当時はまだまだリフォーム業界は悪徳セールスが横行し(今も?)、イメージは悪かったです。しかし、市場はある。伸びている。一方で、リフォームの仕事は泥臭く、大手やエリートは本気で参入しない。これは「弱者必勝の商品戦略」の考え方ではチャンスがある。他の業界と同じく、マジメにコツコツ、お客にとって喜ばれ役に立つことをやれば成功する。かつ、この小笠原と云う男は静岡出身で、中学時代は番長だった。番長=統率力があり、三和銀行時代の計数管理や仕事ぶりを考えると、遅れたリフォーム業界でなら行けるな・・・。勿論、私なりには反応が上がる広告やチラシを創り、かつ、既に勉強していた「竹田ランチェスター戦略」も教え、彼はその通りに実行しました。
あれから6年。途中、何度も倒産の危機がありましたが、そのホームテック(株):福岡本社:は社員300名で年商は今年40億に成長。株式上場を支援するベンチャーキャピタルも数社出資し、早ければ今年か来年、東証へ上場します。先方からは感謝もされていますが、私自身もホームテック:小笠原社長からは多くのことを学びました。まさに人生は出逢いで変わるなと実感しています。

連載第五十一回目

★知人の社長に頭を下げて廻る
こうしてウツが数ヶ月続いた’98年6月、様々な会合でのアドバイスや、金が底をついてきて開き直り、今まで知り合った社長の元へ、頭を下げて廻りました。最初はラーメンチャンピオンの「博多一風堂」河原社長。ちょうどタウン誌「シティ情報ふくおか」の別冊「おいしん本」の広告募集が始まり、一風堂が毎年広告出稿していたのは知っていたので「河原さん、広告を私経由で下さい!」と直訴。それまで、交流会の「ベンチャー大学」等で知り合いではありましたが、どうも商売をするのは人間関係が崩れそうで遠慮していました。
「なんだ。お前はそういう仕事もしているのか」「はい。今までは一風堂はタウン誌直で広告出していますが、代理店の私経由でも価格は変わりません」「どこで出しても変わらないなら、構わないよ。今まで、なんで営業しなかったの?お前は俺のことをよく知ってるから、任せるよ」で、タウン誌の営業広告80万円に加え、それまでリクルート直でやっていた求人広告100万円もあっさり受注。それから、毎月、生徒募集の広告を出していた友人の日本マンパワー福岡校の中川さんを訪ね、「すまん。できれば俺にさせてくれ!他の広告代理店よりも効果を出す!」と云うと、「ああ、栢野さんは新聞広告も扱えるの?知らなかったわ」で、これも約100万円受注。これら広告代理の粗利は受注額の15~20%ですが、有り難い大型受注です。
★素直に「仕事をさせて下さい」
なぜ、こんなに簡単に受注できたのか。それは単純で、お客候補が居ても、お客と業者の関係になる、つまり、自分が格下の身分になるのが嫌で、営業も頭も下げていなかったのです。この姿勢が、営業活動・人間関係全般に出ていたんですね。
昨年の一時期、「営業は頭を下げるな」「殿様セールス」「自分に価値があるように振る舞え」「仕事はお客から来るようにせよ」みたいな理論が流行りましたが、その場限りのつきあいや、力が明らかにお客よりも上の場合はいいですが、やはり仕事をもらう以上、謙虚で素直に「仕事をさせて下さい」「ありがとうございます」という姿勢が必要だと思うんですね。凡人は。
こうして立て続けに仕事をもらった1ヶ月後、今度は以前からつきあいのあった九州一の宅配すし「ふく鮨本舗の三太郎」蔀(しとみ)社長から電話が。「栢野さん。今度TVCMやろうと思うけど・・」。<ああ、TVCMとかは電通とか大手の広告代理店の仕事だ。どこか知らないかという打診だな>と一瞬思ったら、「栢野さんに全部お願いするよ。ざっと2000万」。
「えーーーーーーーーーーーーーーー!!!なんでですか!!」「うーん、いろいろ人脈紹介とかで世話になったし。お返しよ」と。蔀社長とは数年前に知り合い、スゴイ人なんでマスコミ各社や他の起業家に紹介。かなり記事に大きく取り上げられたり、他のビジネスにも結びついたようですが、それは別にこっちが勝手に好意でやっただけで・・・。でも、蔀社長はそれを覚えていてくれて、かつ、仕事がなくて落ち込んでいる私に気を使い、発注してくれたんですね。こういう一連の幸運にも恵まれ、約半年の鬱状態は完全に脱出。’98年のお盆なんかも休みも全然取らず、福岡の町を走り回っていました。やはりビジネスマン・ウーマン・自営業の場合、精神的なスランプ脱出の一番の方法は、新たな仕事を確保することですね。そのためには、ツマラン見栄やプライドを捨てることかなと思います。 

連載第五十回目

★脱サラ2年で約1300万円を返済
こうしてクライアントとのケンカで売上が1/10になり、しかし、新規開拓もままならず、借金返済にも追い込まれてウツに。結局’98年春に先祖の虎の子の土地を投げ売りし、連帯保証で被った1億の借金自体はゼロになりました。失ったものは、親が所有していた一戸建てにマンションや、亡父が勤務していた福岡シティ銀行の株券等、先祖代々の全財産。バブル期は資産価値は5億ありました。しかし、それが売却した時には、土地なんか坪2500万円が300万と約1/10。本当は爺さんからの土地は残したかったんですが、それもできず、自力では脱サラ2年で約1300万円を返済。小さな個人事業では少しは頑張ったかも知れませんが、逆に背負ったものがゼロになり、脱力感でウツに弾みがつきましたね。金はないのにヤル気が出ず、図書館や公園で「俺は今後、何をしたらいいんだ?」と自問自答する毎日。様々な人生本を読んだり、怪しいセミナーやマルチ商法の会合にも誘われ、何か奇跡が起きて救われるんではないかと、阿含宗、幸福の科学、生長の家、善隣教などの新興宗教の集まりにも出てみました。しかし、頭に手かざしパワー?を受けても効果もあるはずなく、「あの人が仏陀の生まれ変わりだ」と言われても、「じゃあ、証拠を見せろ!」とケンカし、素直でない私には洗脳パワーも効かない。29歳の時以来、久しぶりに心療内科にも行きましたが、すでにその頃はウツが流行・繁盛していたようで、先生も「ハイハイ」と数分話を聞いただけで「うん、軽いウツですね。これ薬」で飲んだが効果ナシ。まあ、私の場合はウツの原因は、仕事がない、金がないでハッキリしてましたので、「もう、悩んでいても仕方ない。行動せねば」と経営の勉強のため、福岡県中小企業家同友会の会合にも参加。そこで、誰かが壇上に上がって現状を話し、それに対して皆が好き勝手な意見を述べる「まな板の会」があり、ヤケクソになって壇上へ。
★裸になれ!!
「俺はヤル気がない」「サイテーの人間だ」「家も親も全部失い、もうダメだ」なんてホザいたんです。すると「あなたは心身共に健全じゃないか。世の中には体も動かず、それでも必死で生きている人が山ほどいる」「まだ生きている」「何を甘えている」「できることからやったらどうか」「人助けを考えろ」「初心に返れ」・・と、もっともな率直な意見をいただき、経営コンサル「かたつむり」の石川さんから教えて貰った、病で手足を壊死で失い、見せ物小屋の芸人で生計を立て、最後は講演家・詩人となった「中村久子の生涯」などを読み、ああ、なんと俺は甘い人間なんだ、見栄やプライドにこだわり、裸になっていない。何も努力をしてない、行動してないから、仕事もないのは当たり前だと、新入社員の頃にやった職安や新聞で求人情報をリストアップ→電話や飛び込みで求人広告の営業を復活し、博多に返ってきて知り合った社長や、顧客候補になりそうな会社に、「すいません。仕事を下さい。何でもします。ヨロシクお願いします!」と、年下の人にも頭を下げて廻りました。すると、信じられないことが連続したのです

連載第四十九回目

★事務所の押入れで子育て
1995年に2度目の脱サラを広告代理店でしました。以前にも話したように当初の売上は順調でした。リーマン時代から譲り受けた聖心美容外科などを中心に、求人広告と営業広告・チラシ・パンフ製作を、自分一人で営業・企画・コピーライティング+外注のデザイナー・印刷会社でやりました。事務所は今もそうですが、ライオンズマンション2DKで家賃7万5千円。事務所備品は極力中古。机も通販の組立式の安いヤツ。実はこの独立の1年前に結婚し、独立した1ヶ月前に妻が出産。売上は順調でしたが、家が被った連帯保証1億円の借金?返済が毎月50万円あり、毎月火の車。だから、子供は事務所の押入れで半年間は、共に起業した妻が育てました。
今でも笑い話ですが、赤ちゃんはよく泣く。その最中に電話がかかってきたら、あわてて外に出て話していましたね。次の下の子も3年後に産まれるんですが、その子も押入れ育ち。大変ではありましたが、事務所に来た友人や出入り業者の方々に可愛がられ、そのせいか人見知りしないガキに育っています。
★毎月100万の返済
さて、仕事は’96年はクセだったウツになり低迷しましたが、’97年には交流会「ベンチャー大学」ゲスト約33人から10万円ずつ出資を受け、血気盛んに。ハイになり、元の会社とも大喧嘩しましたが逆に仕事を強引に奪って年商は倍増。福岡青年会議所のメインイベントも手がけ、絶好調でした。妻と2人の小さな事務所で毎月の粗利は250万円。ここぞとばかり、借金返済も毎月100万円にしていました。ところが’97年の10月、売上の9割を占めるメインクライアントと揉め、キレてこっちから「お前の仕事はもうやらん!」と仕事を破棄。バカですね。つまり・・・一気に売上が1/10=具体的には月商100万で粗利は20万程度に激減。まあ、しかし、元はゼロからやってきた俺だ。また新規開拓すればいいさと、飛び込みやリストアップしての電話営業をやったんですが、全くダメ。中小企業とはいえ、まだ前は地元では有数の広告代理店でしたが、独立してからは全くの無名。どこに行ってもけんもほろろで、無名の悲哀をイヤと言うほど味わいました。借金返済の減額に銀行と交渉したんですが、当時はすでに銀行も大変で「ダメです」。みるみるうちに金がなくなり、気づけば図書館や公園でボーとする毎日。そう、またもウツになり、すべてにヤル気を失いました。

連載第四十八回目

★番外編:インド・タイ旅行記
実はこの1/10~20迄、インドとタイに行っていました。元々、妻がガキを連れて行く予定で、前々からいつかは「人生観が変わるインド」に興味があったので、じゃあ俺も行ってみるかと。
いやあ、凄かったです。インドは人口1200万人のコルカタ(カルカッタ)と、ブッダが悟りを得た菩提樹のあるブッダガヤに行ったんですが、まずはコルカタの町が凄かった。一言で言うと、新宿とドヤ街の山谷が一緒くたになったような感じで、もの凄い喧噪。歩道も道路も大渋滞で、車やバス、リクシャ(人力車)、オートリクシャ(三輪車)はクラクションを鳴りっぱなし。歩行者お構いなしに走り回っています。
町の至る所では、日本で言う縁日の露店=印度料理、物販など=が営業していて、中には10歳の子供が大人顔負けで懸命に客引きや料理・接客をしています。安宿(一泊70ルピー=約170円)で7年前にもコルカタに来た日本人(大阪の民芸楽器販売)曰く「以前とは比べものにならないくらいの大発展」。詳しいことは調べていないですが、今の眠りから覚めた中国と同じく、この数年は経済的にも相当成長しているよう。私は知りませんが、戦後、敗戦から立ち上がった直後の、昭和20年~30年代の日本はこうじゃなかったのでは・・・と思えるほどのエネルギーを感じました。
一方、町のアチコチでは物乞いも多数。現地の人にとっては日本人が一番のカモ?のようで、私も100回くらい、子供~80歳の老人からお金を要求されました。町によって所得水準は格差があるようですが、インドを紹介した本によると、一般大衆の平均日収は100~200ルピー=250円~500円。日本の1/10~1/30といった感じでしょうか。
ですから、日本での感覚そのままで来た日本人は1日数百円で外食や宿泊ができ、ついつい財布の紐も緩みがちです。
私も最初は言われるままに物乞いに寄付?していましたが、2日目に行ったブッダガヤで、通常の10倍の値段で数珠を買わされるなど、騙されることが多くなって怒り心頭。3日目以降は物乞いや客引きを一切無視しました。
しかし、彼らの生命力はもの凄い。私が泊まったのは安宿ばかりですが、どこのホテルもフロントの人が出入り口に毛布一枚で寝泊まり。今のインドは1月の乾期で、コルカタの気温も昼間で25度、夜は10度くらいと意外に寒いんですね。それでも、一般大衆は水のシャワーや街頭の井戸水で体を洗い、朝から夜中まで「生きるために」懸命に働いています。
ブッダガヤはコルカタから約500キロ北西、急行列車で10時間ほどの田舎にありました。約2500年前ブッダが修行の末、悟りを開いた巨大な菩提樹の横に大寺院があり、ちょうど私が行ったときは、チベットの僧たちの巡礼週間。仏教発祥の地で、懸命に前身で祈る姿が印象的でした。
近くには、日本の寺院が共同で建てた「印度日本寺」があり、3~6歳?程度の幼児約100人を集めた、日本寺によるボランティアの授業が開かれていました。教師は皆、地元のインド人ばかりでしたが、幼児が「センセー!」と呼んでいるのは微笑ましかったですね。
ここブッダガヤでも着いてスグ、インド人2人から声をかけられ、結果としては木彫り仏陀や数珠を10倍の値段の約7000円で買うハメになったんですが、丸一日、ブッダガヤやスジャータ村=修行中のブッダにミルク粥を与えた女帝?スジャータがいた村をガイドしてもらい、騙されたことには腹が立ったんですが、まあ楽しめました。
インドの帰りは、飛行機の都合でタイのバンコクに一泊したんですが、ココも凄かったですね。1日目はバスや徒歩でバンコクを歩き回り、2日目はコンビニで見つけた在日邦人向け新聞「バンコク週報」編集長を飛び込みで訪ね、2年前にタイで起業33歳の半導体プログラムソフトの社長と屋台で会食しましたが、タイの経済は絶好調。
日本の1/5~1/10という賃金の安さや労働力の質の高さ、政治の安定などで、日本を筆頭に外資の投資が活発。昨年は7%の経済成長を果たし、今年も順調な成長が見込まれています。
この「バンコク週報」の杉山さんは、東京の編集プロダクション等を経て、趣味の旅行・バックパッカーの延長で6年前にタイへ移住。
福岡で言う「シティ情報ふくおか」や「ガリヤ」みたいなタウン誌も立ち上げましたが、日系企業・商店中心に広告売上も順調。発行部数は国内外で1万部ですが「充分、採算に乗っています」とのこと。中身は全部日本語で、読者対象は在タイ約20万人の日本人と年間120万人の渡タイ日本人。
大企業ではここでもトヨタやホンダが絶好調で、タイで生産した車を近隣アジアへ輸出。近年は日本の中小企業の進出が目覚ましく、タイの日本企業商工会議所メンバーは約1200社と、海外ではアメリカを抜いて世界一になったそうです。
この発展に加え、バンコクは亜熱帯地域で、私が行ったときも晩夏なみの気候で過ごしやすい。英語や日本語がそこそこ通じるので、海外放浪した日本人も数多く滞留しています。
ある程度の能力と語学力を持った日本人なら職には困らないようで、現地タイ人の平均賃金が約1万バーツ=3万円に対し、現地採用の日本人賃金は約3万5千バーツ=約10万円。現地では相当優雅な生活ができます。就職手段は、日本系人材派遣・紹介会社経由が多いようです。
33歳の日本人起業家は「日本へ帰ると暗い話ばかりだが、タイは好景気だし、生活も格段に過ごしやすい。まさに楽園です」。
単なる10日間の旅人の目から見たインドとタイでしたが、私もこのアジアにはもの凄い可能性を感じました。10年前に行った中国の上海や深センと同じ勢いがあります。
タイも大通りを一歩中へ入ると貧困街が多数在りますが、日本が忘れた昭和30年代のハングリー精神と生命力が有り余るほどある。感触としては、今の日本と正反対のパワー充満です。
タイやインドは格安チケットを使えば往復数万円。下手なセミナーや研修より、はるかに良いショックを受けますね。おすすめします。

連載第四十七回目

★夢や目標を書く
心構えを変えると、習慣が変わる
習慣が変わると、行動が変わる
行動が変わると、人格が変わる
人格が変わると、人生が変わる
                ・・・と言います。
ダメもとでもいいから、夢や目標を書き、その実現のために行動を起こしてみて下さい。私も本が出せたのは、まず最初に1998年の年末に「本を出す」と書いたからです。それから4年連続挫折しましたが、ついに去年、実現したのです。金がかからないことや、やって失敗してもリスクが小さい場合、まずは行動に移すべきです。その大半は失敗や挫折となるでしょう。でも、そのチャレンジは、必ず!明日への経験となって積み重なります。人生は何度でも、いつでも逆転できます。倒れても、何度でも立ち上がればいいのです。
笑う人がいれば笑わせてればいいです。私も何度も笑われました。
「また、栢野がホラ吹いてる・・」とね。それがいいんですよ。悔しいし、この野郎と思う。それがパワーになる。とにかく、夢想でもイイ。夢なくして、行動なくしては、何も変わりません。日々、流されるだけです。ダメモトで、2004年の夢・目標を書いて下さい。できれば、親しい数人とそれを見せ合って下さい。理想は毎月、毎週、その夢に関する雑談をする機会を作ること。私は幸い、博多で毎週約10人とその会議を開いています。まさに仲間と切磋琢磨です。
★楽天日記
ただ、この環境はなかなか難しいですが、一人でもデキル方法があります。それは冒頭にあげた「楽天日記」を着けることです。これは楽天が無料で提供している簡単ホームページ作成サービスで、ワープロで打ち込むだけでできます。いまはわからないなりに、毎日、または数日後とでも、想いを書いていると、そのうち徐々に自分が見えてきます。かつ、この楽天日記のいいところは、既に仲間が約15万人もいて、互いに公開・交流がデキル点です。私自身、今や楽天日記ナシでは考えられない人生で、ここで多くの人に励まされ、アドバイスをもらい、時には助言もしています。かちっとした夢や目標がない、わからない場合、まずは日記を着けてみて下さい。作り方はココです。
http://plaza.rakuten.co.jp/
自己紹介など、慣れたらまずは10分で作成できます。あとは少しずつ、空いた時間に書き込んでいくのです。日記、エッセイ、趣味、仕事・・なんでもいいんです。楽天仲間は互いに情報交換でき、日記を書いてない人も勿論アクセスや書き込みができ、一般的なHPとしても使えます。
とにかく、騙されたと思って「2004年の夢&目標」と「楽天日記」を書いてみて下さい。一切、お金はかかりません。変更削除もいつでもできます。
私の尊敬するネットジャーナリストであり、有名なメルマガ「百式」http://www.100shiki.com/の田口さんも「アメリカで、ネットで一番可能性があるのは日記システム。日本では楽天日記」とセミナーで言ってました。
また、友人のメルマガ「営業マンは断ることを覚えなさい」の石原明コンサルhttp://www.nihonkeiei-lab.com/melmag/index.htmlは「行動すれば次の現実」といつも言います。
うーん、今は夜中にビール飲んで書いていて、なんか興奮してわけわからんことを書いてしまいました。
まあ、とにかく、失敗を怖れず、行動しようということです。くどくなってすみませんでした!