連載第二十四回目

★作家は夢のまた夢
まあ、こうして文章書きのマネごとはしたんですが、とても作家や文章だけで食っていくなんて夢のまた夢。ただ、多少の努力はしました。有名なコンサル2人の対談コーナーなんかをいくつか受け持ち、それをテープにとって起こして文章にしていたんですが、これが毎回、内容がない話ばかり!そのまま文章にしても良かったんですが、これじゃあなあと、自分でその分野の情報を図書館や本屋で調べ、半分以上を書き直し。自分の勉強でもありました。そして、その文章をチェックしてもらうんですが「うーん、栢野君は文章がうまいね!」だって。ただ、なぜこの人なんかで仕事が次々に来るんだろう?疑問に思い、先方のオフィスでじっと見ていると、その「先生」=ヘドが出る呼び方=は、営業・接客・サービス精神がある。つまり、雑誌社の担当やお客さんとのコミュニケーションというか、非常に相手を大事にする行動が多いんですね。原稿を取りに来た女の子にも「御苦労さん」とジュースやケーキを出す。編集長にも付け届けを出す。お礼のハガキを出す・・・etc。芸能界なんかもそうですね。酷い場合は「寝た女」を優先して番組に出すとか、「接待」がうまいプロダクションの歌手を優先して使うとか。
私の身近?な博多のある女性コンサルも、男性陣の前での服装は派手で、しかし、オジン連中は鼻の下を伸ばして「じゃあ、彼女に発注するか・・・」なんてね。まあ、以上は下品な例ですが、相当な実力者でない限り、同じレベルの実力なら、性格や人格や人当たりのイイ人を使います。
そういう意味では私は最低な作家?コンサル?講演家?ですね。おべんちゃらや接待やなんかが大嫌いですからね。前に仕事を貰った人でも、「腐った部分」を見つけたら、容赦なく叩きのめしたりします。だから、2チャンネルなんかでは、一時期は私の掲示板が5つも出来ていました。最近は時間がタイトであまり相手にしてませんがね。興味ある方は2ちゃんの「起業・ベンチャー」掲示板をご覧下さい(笑)。
★33歳出版社のバイト契約社員
こうやって、今となってみれば多少の文章修行をしていたことにはなりますが、前回も言ったように、俺は沢木耕太郎や椎名誠や神渡良平さんなんかにはとてもなれない。文章の仕事は始めたが、もう33だし、それも潰れそうなビジネス系出版社のバイト契約社員だし、今更間に合わない。ホントに俺は今後、どうすればいいんだと、ものすごい自己嫌悪に陥ってました。ただね、後になって起業家の人生を研究分析するようになってわかったんですが、まあ、最初からうまく行く人はほとんどいないんですね。大体が1~3年は食えない。カツカツ。それどころか、1年で約4割が廃業し、5年で約7割が廃業・倒産・破産。自宅事務所で借金もせず、人も雇わずにやれば、何とか「生きている」状態は確保できますがね。追い込まれたら、早朝や夜中や休日に、バイトでもしまくるんですね。実際、今から2年前にはわずか3ヶ月ですが、早朝の新聞配達をしていました。毎日朝4時起きで雨の日も風の日も休めない。あれは自分にとって相当な訓練・経験でしたね。月に4万3千円の小遣いにもなったし。ただ、やっているときは昼間は広告や「先生業」=すでに年間20回くらい講演・コンサルをしていました=が、実態は食えない自営業。やっているときは惨めでした。それでも、まあ、新聞配達なんて大したことないけど、「嫁さんと2人だが、株式会社の社長でここまでヤルやつはいないだろう。必ず何かをつかめる。目覚めるはずだ」と思っていましたが、実際は「俺は何をヤッテいるんだ?!情けない」という気持ちも半分。
★母に恋人
これが2年前の状況ですが、話は元に戻りますが、今から11年前の出版社テープ起こし時代も、2年前とまったく変わらない状況。お菓子の「カルビー」なんかに「新商品の件で取材したい」なんていうと「えっ!ありがとうございます!ぜひ、お願いします」なんて簡単にアポが取れ、何かの飲み会で「ビジネス社 記者 栢野克己」なんて名刺を出すと「カッコイイ!!」なんて、マスコミ大好きバカ女からは言われましたが、「へっ。リクルート社時代と同じく、俺がバイト社員だとわかるとバカにするくせに・・・」なんて思い、女性にも本気でアタックできない。
大都会東京にいるのに、夜になると「松屋」や寂れた定食屋にで一人夕食を取る悲しい独身オトコ。大体、そういうとこにはどうみても結婚できない中年オトコが沢山いるもので、新宿の街を歩いてホームレスを見ても、とても他人事とは思えない。暗い暗い、先が見えないトンネルの中だった1991年~’92年年明けの冬でした。
たまに博多の一人残っていた母(父は高校2年の時に脳血栓で突然死)に電話すると「克己も社長で頑張ってるんだね。ママも彼氏が出来てね。天神の土地がこの前は坪2500万円にもなったよ」なんて、気楽な元銀行役員の未亡人気取り。母に恋人か。まあ、母も41歳で未亡人になったし、そういう話もあっていいかと思っていた’92年の春、我が耳を疑う、信じられない一本の電話がかかってきたのです。